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2012年5月8日
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ゼッケン67 走り続ける

写真拡大クサカ・ヘーラトさんを見つめる鈴木康允さん

写真拡大東京五輪男子1万メートルでただ一人、ゴールを目指すカルナナンダ選手

 「最初」にある華々しさ、勢いは望めない。「最後」はその分、緊張を帯び、余韻を残す。最後の一人、最後の雄姿、最後の一葉、といったところの人模様を探りたい。

    ◇

 「ゼッケン67」にピンとくる人は、1964年の東京オリンピックを目の当たりにしたか、小学校の国語の教科書で読んだかだろう。

 東京五輪1万メートルは38選手中9人が途中棄権した。スリランカ、当時セイロンのカルナナンダ・ラナトゥンゲは遅れた。他の選手のゴール後、1周、2周、3周した。冷ややかだった7万の観衆は、トラックを一人走るゼッケン67に吸い寄せられ、優勝をも上回る拍手でゴールに迎えた。

 鈴木康允(すずき・やすまさ)(71)は両親を早くに病気で亡くし、24歳の当時は東京都墨田区のおじの雑貨店で働いていた。たぶんそこのテレビでレースを見た。

 恥ずかしさだってあるだろう。すごいやつがいるなあ。将来への漠然とした不安を抱える鈴木に、頑張る大切さを教えてくれた気がした。

 感動を抑えられなくなった。趣味で1年以上かけてつくった西洋の砦(とりで)の模型を持ち、近くの新聞社の支局を訪ねた。あの選手に贈りたいのだと言うと、記者が選手村まで行こうと誘い、あれよあれよという間に鈴木は心の英雄と対面していた。

    ◇

 英雄は鈴木より4歳上、身長は167センチで鈴木より少し小さかった。「この体にすごいエネルギーを秘めている」。2人の縁の始まりは、2人が会った最後になった。

 帰国した英雄に鈴木は手紙を書いた。返事が来たのは4年後。日本で働きたいと書かれていた。だが、再び音信は途絶えて90年代も半ば、鈴木はカルナナンダが74年に水死していたことを知った。

 最後まで頑張ることを教えてくれた英雄を忘れまい。鈴木が呼びかけ、東京のスリランカ大使館で97年「ビリの英雄を偲(しの)ぶ会」が開かれた。鈴木の知り合いだった講談師の田辺一鶴(たなべ・いっかく)が、1万メートルの光景を講談にして披露した。

 会社員の傍ら、鈴木は野球史、鉄道、地下水と、いろんな研究に力を注いで忙しかった。今も千葉県船橋市で子どもたちに工作を教えている。ビリの英雄の物語は自分の中で幕を引いたと思っていた。

 2009年の桜の咲くころ、鈴木はふと見かけた少女に「車、危ないよ」と声をかけた。少女はスリランカに住むクサカ・ヘーラト(16)だった。小学校4年まで千葉県で過ごし、この時は日本に駐在する父の元に来ていた。鈴木は「カルナナンダを知っている?」と尋ねたが、知らなかった。

    ◇

 クサカの父は知っていた。渡した名刺をたよりに電話をかけてきて、スリランカの自宅近くにカルナナンダの親類が住んでいると話した。鈴木は翌年、ヘーラト家の案内でスリランカを訪ねた。

 70年代、光村図書の小学4年国語の教科書に載った「ゼッケン67」は、カルナナンダの言葉で結ばれている。「国には、小さなむすめがひとりいる。そのむすめが大きくなったら、おとうさんは、東京オリンピック大会で、負けても最後までがんばって走ったと、教えてやるんだ」

 ビリの英雄は46年をへて、鈴木をその娘、ネルム(47)に引き合わせた。ネルムは看護師をしながら病気の母と子ども2人の面倒をみていた。

 「父のことを話して鈴木さんは泣きました。どれだけ父を大事に思ってくれているかがわかりました。鈴木さんとの出会いは、父の思い出とともに私の中にあります」

 ネルムはそう話す。東京五輪の年、それもカルナナンダが出場を決めた日に生まれた。「お前は私に幸運をもってきてくれた」。10歳の時に亡くなった父は、口癖のように言っていた。

(このシリーズは江木慎吾が担当します。文中の敬称は略します)

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