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2012年5月22日
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「舟」を編む 果てはない

写真拡大平木靖成さん

写真拡大三浦しをんさん

 辞典には無尽蔵ともいえるほどの言葉が載っている。こんな分厚い本を、どうやって作ったんだろう。三浦(みうら)しをん(35)の小説「舟を編む」は素朴な疑問から生まれた。

 物語は、何年もかけて辞典を編纂(へんさん)する編集者らの情熱を描く。書店員が選ぶ今年の本屋大賞を受賞した。何より辞典作りの舞台裏が興味深い。

 三浦は最初、主人公の編集者、馬締光也(まじめ・みつや)に「言葉と一徹に向き合う堅い人」というイメージを膨らませていた。それを覆したのが、広辞苑を編む岩波書店辞典編集部の平木靖成(ひらき・やすなり)(43)だった。

 取材で「ご趣味はありますか」と尋ねた。「駅のホームにあふれた人がエスカレーターに整列して吸い込まれていくのを見るのが好きです」。おかしくて、主人公の趣味にそのまま採用した。

 辞書は断定調の物言いばかりかと思うと、おかしな隙がある。Aを調べたら「Bを見よ」、Bを調べたら「Aを見よ」のような。こうした真面目さと抜けたところが主人公に通じると思う。

    ◇

 平木は1992年に入社し、宣伝部に配属された。翌年、辞典部に異動になる。以来、辞典作り一筋。「上司は、私の整理好きが印象に残ったみたいです」

 辞典作りでは、項目になる語を挙げ、編集者や研究者が語の解釈を執筆し、校正する。5回も6回もゲラをチェックする校正作業に「整理」は欠かせない。

 広辞苑は機械製本ギリギリの厚さだ。第6版は約24万項目を3049ページに収めた。編集の途中で項目が追加になると、ページ数は変えずに、他の項目の文字を削ってスペースをつくりだす。平木はそこで本領を発揮する。

 「5ページにわたって少しずつ文字を削り、すべての項目を入れた時は『よっしゃ』と思います」

 無駄なく説明が書けたと自負するのは「村社会」。53字でこう表現した。〈旧習にこだわり排他的な同朋(どうぼう)意識に基づいた社会や組織。伝統的な村の人間関係を、否定的な面からとらえていう語。〉

 ただ、どの辞典を作っても完成したという満足感を味わったことはない。

 市町村の名前は、平成の大合併後に説明を変えた。米国大統領が代われば、それを取り込む。一方で、学会が「優性遺伝」を「顕性遺伝」と言い換えを検討しても、取り上げなかった。「一般に浸透しているかどうか。辞典は指針として社会の鑑(かがみ)であり、社会を映す鏡でもある。作業に終わりがないんです」

    ◇

 小学館取締役の佐藤宏(さとう・ひろし)(59)も三浦の取材を受けた。日本最大の辞書「日本国語大辞典」の改訂に編集長として関わった。90年から10年かけて全13巻、項目50万、用例100万に及ぶ辞典を編んだ。

 用例の出典確認に延べ100人の学生バイトを雇った。必ず原典に戻って調べるためだ。こんなの民間企業がやることじゃない、と思うこともあった。半面、「これを国がやっちゃ、おしまいだ」とも。国家によって意義を与えられた言葉は、権力支配の道具にもなるのではないか。三浦とは、そんな話もした。

 三浦は字も読めないうちから広辞苑のページをめくって遊んだ。それで、本に魅せられるようになる。中学の入学祝いでもらった「大辞林」を、背表紙が取れた今も手元に置く。辞典にこんな思いを抱いている。

 「言葉は、親から子へ姿を変えながら手渡していくことで伝わる。社会や人間の経験、感情をバトンタッチする象徴が辞書なんだと思う」

 「舟を編む」の最後に、こんな文章を置いた。

 〈辞書の編纂に終わりはない。希望を乗せ、大海原をゆく舟の航路に果てはない〉(高津祐典)

(このシリーズは高津、清水弟、上田明香が担当します。文中の敬称は略します)

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