チェルノブイリ原発事故から8年後のことだ。
1994年5月、福島県南相馬市に住む詩人の若松丈太郎(わかまつじょうたろう)(77)は、ウクライナの現地を訪れた。
東京電力福島第一原発が稼働した71年から、詩や評論で原発の危険性を警告してきた。知り合いから誘われ、若松は福島県民でつくった調査団に参加した。
放射性廃棄物を埋めた穴に土をかぶせた空き地から、事故現場の4号炉を覆う巨大なコンクリートの「石棺」を仰ぎ見る。世界を震撼(しんかん)させてからずいぶん時が経ったというのに、周りにはどこか不穏な雰囲気が漂っている。
その距離、約120メートル。
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若松らが持参した放射線量測定器は、2台とも「測定不能」になった。それほどまでに周囲は高濃度の放射能で汚染されていたのだ。
「まるで熱いフライパンの上に立っているようだ。一刻も早くこの場から立ち去りたい」。放射能の怖さを初めて体感した瞬間だった。
帰国後、「神隠しされた街」という詩を書いた。強制疎開させられたプリピャチ市の惨状をうたったものだ。
《多くの人は三日たてば帰れると思って/ちいさな手提げ袋をもって/なかには仔(こ)猫(ねこ)だけをだいた老婆も/入院加療中の病人も(略)/四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた/鬼ごっこする子どもたちの歓声が(略)/ボルシチを煮るにおいが/人びとの暮らしが(略)/消えた》
詩はその後、福島に引きつけながらこう続く。
《私たちが消えるべき先はどこか(略)/私たちの神隠しはきょうかもしれない》
それから17年後の2011年3月11日、東日本大震災が起き、翌12日に福島第一原発が水素爆発を起こした。
多くの住民は住み慣れた家や土地、故郷を追われた。
「危惧してきたことが現実になった。これは人災、企業災だ」と若松はいう。
南相馬市は事故後、立ち入りを禁止する「警戒区域」や「緊急時避難準備区域」などに分断され、支援トラックも近づかずに一時は「陸の孤島」と化した。
「政府は放射能の拡散を予測する『SPEEDI』の情報を知らせず、被曝(ひばく)させた。『怨 水俣死民』とむしろ旗に書いた水俣の人々の思いをわがこととして受け止める」
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国と東京電力の刑事責任を市民が追及する「原発を問う民衆法廷」が5月、福島県郡山市で開かれた。
出廷した若松は、南相馬市の子どもたちが「いま知りたいこと」として書いたことばの一部を読み上げた。
放射線を気にしないで外で遊べるのはいつですか。30キロ以内に子どもがいていいの? 甲状腺がんは私たちを死に追いやる病気なの? 将来、子どもが産めますか――。
「10歳前後の子どもがこんな思いを抱えて生きている。むごいとしかいいようがない」。若松は訴えた。
「物心がついた時、私は戦争の時代のただなかにいた。その戦争責任を徹底して追及しなかった結果として現在がある。将来に禍根を残さないためにも、核災の原因者たちを糾弾しなければならない」
「核災」とは聞き慣れないことばだが、そこには詩人の直感で今日の事態を予見した若松のこだわりがある。
「事故というと、交通事故のように関係者の範囲が限定される。だが3.11は広範囲に影響が及ぶ核による災害、『核災』ではないか。日本という国は形の上では民主主義を採り入れながら、実際には主権者の国民を棄民する。私たちは『核災棄民』だ」
3・11は、この国が抱えるいろいろな問題を浮かび上がらせた。来月4日には総選挙が公示される。選挙戦の行方はまだ見通せない。だが「選挙の争点」のいかんにかかわらず、この国で民主主義を機能させ、確かなものにしていく上で大事な課題がある。それらを考えていきたい。
(このシリーズは松本一弥が担当します。文中敬称略)