この大輪の華のような笑顔の女性は、講談師・宝井琴柑(たからい・きんかん)さん。右手の張扇(ハリセン)をパンパンと打ち鳴らし、あるときは太閤秀吉の武勇伝を、あるときは涙の仇討ちを語ります――。「就活を企業だけではなく、農業や伝統芸能にも広げては」。そんな声を聞いて、今回は会社勤めを経て、日本の話芸「講談」の世界に飛び込んだ宝井さんにインタビュー。ああ、芸の道とは…。
――講談との出合いは?
「私は飽き性なのか、幼稚園から小学校にかけて、バレエ、英会話、フルート、エレクトーン…いろんな習い事をさせてもらいましたが、どれも数年で辞めてしまいました。ただ、朗読だけは得意で大好きで、国語の時間に先生にいつもほめられていました。それで中学生のときに朗読を習いたいと言ったら、親が朗読教室を見つけてくれたんですが、子どもには教えられないと。じゃあ、知人がやっている講談教室に行ったらということになり、講談と出合いました。その教室は定年後のおじいちゃんばかりでしたが、発表会に出たり、楽しんで通いました。友だちも『講談をやっているんだってね』と関心を持ってくれるし、中学、高校と続けたんですよ」
――でも、当初は農業関係の出版社に就職されましたね
「はい。私は横浜のごく普通のサラリーマン家庭に生まれ、農業とはまったく縁がなかったんですが、中学、高校の体験学習で何となく農業を選び、農業に引かれていきました。中学のときには秋田県、高校のときには山形県に行って、農家のお手伝いをしたり、交流をしたり。雪とか自然とか東北の環境にも魅せられ、山形大学に入学。高校時代にお世話になった農家のサクランボの収穫を手伝ったりして、東北弁がうつるくらい馴染んでいました(笑)。東北弁のくぐもった話し方は歯切れのいい講談からすると余りいいとは言えないし、近くに寄席もなかったので大学時代は講談のことをすっかり忘れていました。就活では、文章を書くのも好きだったので農業関係の出版社や新聞社を受け、採用になったのが農家向けの雑誌などを編集する出版社だったんです」
出産を機に編集プロダクションを退社。その後、数十社を回り「就活」しましたが子連れでは再就職はかなわず。その憤りが原動力となって、フェミニズムに目覚め、年齢を重ねながら高齢者問題、介護、医療、看取りへと、テーマを広げてきました。私にとって働くことは生きること。このコーナーでは、私自身が会いたい方にインタビューを敢行、読者の皆さんと一緒に考え、議論を巻き起こしたいと考えています。今の関心事は「最期まで働ける社会を構築すること」「きもので傾聴ボランティア」。