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上方風流 話尽きなんだ

2009年11月16日

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写真天皇陛下(左)から文化勲章を手渡される桂米朝=3日、皇居・宮殿「松の間」、代表撮影

 文化の日に、東京で演出家の山田庄一さんにお会いしました。山田さんは歌舞伎や文楽の生き字引のようなお方で、昭和38(1963)年から始まり、私も活動に加わった「上方風流(ぶり)」の発起人でした。それで、上方の文楽、歌舞伎、能、狂言、落語、漫才など幅広い世界からそれぞれ40歳までの芸人が集まって、上方風流という雑誌を出すことになったんです。

 私はもう細かいことは忘れてしもたんやが、そもそもは、新聞などに載る「芸能評」への反発もあって、芸人の方から何か発信できるものを作ろうというのが始まりやった。そやさかい、原稿を書けるというのが参加できる一つの条件やったと山田さんは当時を振り返ります。そのころ、私は千日劇場によう出てたんですが、落語について調べて書いても、載せるところがなかなかなかったんや。雑誌を出すこと自体、大変な時代やったさかいね。それで、この上方風流にいろいろと書いたんです。

 とはいえ、みんなからそう簡単には原稿が出てこなかったんやそうで、とりまとめをする山田さんは苦労したそうな。それで、まず何人かを集めて座談会をして、その内容を載せるようにしたんです。座談会と言うても、酒を飲みながらや。どこかの店に集まって、いろんな舞台の話をする。話題は尽きなんだな。

 雑誌は全部で8号出しているんやが、山田さんは7号まで携わったあと、仕事で東京に引っ越しました。発行してた部数が少なかったんで、あの雑誌をすべてお持ちの方は貴重やと思いますな。私もたまに見つけると、読みふけってきりがのうなってしまう。あの時分は、みんな懐もさみしかったな。広告も取ってはいましたが結局、赤字やったはずやで。

 今回、一緒に文化勲章を受章した坂田藤十郎(当時は中村扇雀)さんも、文化功労者になった吉田簑助さんも上方風流のメンバーでした。言い出した山田さんが感じてたように、あの活動を始めたころは、関西芸能の地盤沈下がどんどん進んでいました。集まった私たちも、それは危機感を持っていましたよ。当時はまさか、こんな日がやって来るとはだれも思ってもいなかったんです。

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