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(45)陶邑出土の須恵器群 大阪府立泉北考古資料館

地味だけど「聖地」。それを…
[新聞掲載]2008年05月09日

 「陶器」と言う言葉は、平安時代には「すえもの」と読まれたのだという。日本書紀の崇神天皇の条に、茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)という地名が登場する。茅渟県というのは、当時「茅渟の海」と呼ばれた大阪湾に面した地域で、今の堺市周辺だ。そこに、「すえ」と呼ばれる硬い焼き物を作っていた村があった。

写真年代の基準になる須恵器を公開している資料室。一つ一つの形や模様がものさしの「目盛り」になる

 現在、この青っぽい灰色の焼き物は「須恵器(すえき)」と呼ばれている。縄文時代以降、日本で作られていた土器は、土で形を作り、周りで火をたく「素焼き」で作られた赤っぽいものだった。これに対して、須恵器は斜面に作られたトンネル状の窯で焼かれる。窯の内部は酸欠になり、「還元焼成」という焼け方で、素焼きの土器に比べると非常に硬い焼き物ができあがる。朝鮮半島の技術が古墳時代半ば(5世紀)にもたらされて生産が始まった須恵器は、古墳や集落の遺跡を発掘すると、どこでも大量に見つかる。

 日本書紀の陶邑とみられる須恵器の窯跡が、堺市で次々と見つかったのは60〜70年代。泉北ニュータウンの開発によるものだった。その数、約400基。5世紀前半から平安時代の前半(10世紀)までの500年間、ここが須恵器生産の中心地だったことが分かった。

 須恵器は、年月がたつにしたがって少しずつ形をかえていく。一つの窯跡を発掘調査すると、下層の古い須恵器から、上層の新しいものへの変化を追うことができる。陶邑の須恵器の変化を複数の窯でつないでいく地道な研究の結果、500年分の須恵器の新旧を形で見分けられる「ものさし」がつくられた。各地の古墳や遺跡で出土する須恵器の形を陶邑の「ものさし」と見比べて、その古さを判定することが可能になった。

 この全国的にも重要な「ものさし」を保管し、公開する施設として、大阪府が70年、整備されつつあった泉北ニュータウンに建てたのが、府立泉北考古資料館だ。開館から40年近くたった今、同館の展示は決して人気があるとはいえない。灰色の皿や椀(わん)、壺(つぼ)が年代や遺跡ごとに並び、金色に輝く装飾品も、勇壮なよろいや武具もない。とにかく地味だ。

 だが、学術的な意味は大きい。資料室には約6千点の須恵器が年代別に整理され、いつでも見られるよう保管されている。考古学、特に古墳時代を専門とする研究者や学生にとっては「聖地」とも呼べる場所なのだ。同館の須恵器のうち2572点は、05年に国の重要文化財に指定された。大阪府所蔵の考古資料が重文に指定されたのは初めてだった。

 そんな同館は今、存続の危機にある。大阪府の財政再建を目指す改革プロジェクトチームが、施設の老朽化や利用者数低迷を理由に「堺市へ移管を検討、それが無理なら廃止」という方針を打ち出したためだ。そうなった場合、考古学の年代研究の柱になっている陶邑の須恵器の保存と活用は、今まで通りにできるのだろうか。この「ものさし」。決して大阪府だけのものじゃありません。

(文・今井邦彦 写真・矢木隆晴)

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