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文化・情報 膨らむ夢 フェスティバルホール新時代へ

2007年04月02日

 「水の都」、大阪の都市機能の中枢を担う大阪市北区の中之島で、朝日新聞グループのビルが二つの超高層ビルに建て替えられることになった。情報発信拠点としての機能を強化するとともに、地域の防災拠点を目指す。建て替えに伴い、大阪の「芸術の殿堂」として長年親しまれてきた「フェスティバルホール」も生まれ変わる。京阪中之島線が開通し、地下鉄四つ橋線の北への延伸が構想されている。人の流れは新たな「にぎわい」を中之島にもたらすだろう。

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 愛され50年…「艶ある音」さらに

 海外の優れた芸術をいち早く紹介、日本の創作の拠点となる――。フェスティバルホールは、来春50回を迎える大阪国際フェスティバルの会場として、この半世紀、全国へ文化の発信を続けてきた。

 誕生は58年4月3日。名称には、英国エディンバラやオーストリアのザルツブルクに並ぶ、世界に冠たる音楽祭の会場に、との思いがこもる。クラシック音楽のコンサートやオペラ、バレエに加え、ポップス、ジャズ、ロック、能・狂言まで、幅広い分野の祝祭の空間として、多くの音楽家や聴衆に愛されてきた。

 2階建て2700席。幅30メートルという間口の広い舞台が特徴だ。音楽評論家の小石忠男さんは「このホールができて、関西、ひいては日本の音楽活動が一気に本格化した」と話す。

 カラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団も、60〜70年代に3度公演した。音響担当を27年間務めた堀江正さんは「気難しいといわれたカラヤンが、リハーサル終了時は親指を立て、にやっと笑った」。

 「伝説」と語り継がれるのは67年、アジア初のバイロイト音楽祭の引っ越し公演だ。「日本の音楽界のグローバリゼーションのさきがけ」と音楽評論家の日下部吉彦さん。「ワルキューレ」などの鮮やかな演出に聴衆は圧倒された。

 70年の大阪万博では第2会場となり、ベルリン・フィルやリヒテルなど大物芸術家が登場、全国のファンが押し寄せた。

 山田耕筰「黒船」(60年)、團伊玖磨「ひかりごけ」(72年)など、日本の創作オペラも積極的に上演。大阪フィルハーモニー交響楽団を率いた指揮者の朝比奈隆は、このホールが大のお気に入りだった。大型だが横長、客席との一体感が強い舞台は、ポップスなどの歌手にも人気がある。

 08年秋ごろに一時閉館し、いまある四つ橋筋東側に13年度にできる超高層ビル内に開く。現在と同様、国内最大の規模を維持し、本格的なオペラ公演も楽しめるように舞台も広げる。最新鋭の音響・舞台装置を導入する。トップレベルの声楽家や演奏家らで専門家チームをつくり、カラヤンも絶賛し、世界的にも評価の高い「艶(つや)のある音」のさらなるグレードアップを目指す。小石さんは「これからも大阪へ来なければ聴けない、見られない舞台をどんどん発信してほしい」と期待する。

 大正モダンや高度成長…社屋・ホール、地域とともに

 朝日新聞は1879年1月25日、大阪で産声を上げた。明治、大正、昭和、平成と、中之島を拠点に新聞をつくり続けてきた。2009年、創刊130周年を迎える。

 創刊時、江戸堀(現・大阪市西区)にあった木造家屋を月4円69銭で借りて社屋にした。中之島に進出したのはその5年後。旧宇和島藩の蔵屋敷を改造した。部数増とともに手狭となり、新社屋建設に着手。1916年、鉄筋コンクリート造りの洋風建築ができた。文字盤の直径が約3メートルもある屋上の大時計が目を引いた。

 当時の中之島は、中央公会堂やダイビルなど今なお残る近代建築が相次いで完成し、「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれた当時の大阪市で、大正モダン文化の中心でもあった。26年には「文化芸術の殿堂」として、ホールのある朝日会館もできた。戦前は宝塚歌劇団の公演にも使われた。

 現役の大阪朝日ビルが新しい社屋として完成したのは31年、満州事変の起きた年だった。屋上には国内初のアイススケート場も設けられたが、戦時中に閉鎖された。

 フェスティバルホールのある新朝日ビルの完成は58年で高度成長にさしかかるころだ。現社屋の入る朝日新聞ビルが誕生した68年は、日本の国民総生産(GNP)が世界第2位になった。

 新聞製作とともに、音楽、演劇などを通じた文化の普及や交流の場づくりにも努めてきた。これからも情報や文化の発信を――。新ビル構想にはそんな決意が込められている。

 ■指揮者・井上道義さん さきがけ精神 担い続けて

 フェスティバルホールに初めて足を踏み入れたのは17歳のころ。朝比奈隆さん指揮の大阪フィルハーモニー交響楽団を聴きました。指揮者として初めて舞台に立ったのもやはり大フィルの演奏会。妻に出会ったのもその時の楽屋です。

写真井上道義さん=東京都新宿区で

 当時、ホテルと一体になったホールは世界でも珍しかった。共演したドイツのオーケストラの団員が「これはいいアイデアだ」と口々に感心していたのを覚えています。

 舞台に立つと、球場にいるような気になります。大きくて端から端まではつかみきれないような。でも、間口は大きいが響きは非常にいい。歌手の声もよく通るんです。演奏の方法を間違えなければ、お客さんに感動が伝わるホールです。

 大阪国際フェスティバルでは、04年に上演したプッチーニ「ラ・ボエーム」、昨年のオペラ物語「ブリリアント・モーツァルト」などで演出も担当しました。使いやすいホールでしたよ。照明効果もよく出るし。

 忘れられない演奏があります。00年の大フィル定期演奏会で振った、ショスタコービチの交響曲第4番。僕は「ヘビメタ・シンフォニー」と呼んでいますけれど、缶詰の中身が腐って爆発したとでもいうか、あの空間が音でいっぱいになった。あんなことは、なかなかない。

 建て替えるのなら、本当にいい多目的ホールにしてほしいですね。「多目的は無目的」なんて言われた時代もありましたが、今ならいい多目的ホールもつくれるでしょう。

 入れ物だけじゃなくて、そこに人もいて組織もあって衣装もつくっている。でもオペラハウスじゃない。そんな世界にも例のないものにしてほしい。そこそこのホールならいらないですよ。フェスティバルホールは、大阪からいろいろな文化が始まった時代の、さきがけだったのですから。(聞き手 星野学)

 ■さだまさしさん 神様がつくったホール

 フェスティバルホールで初めてソロコンサートを開いたのは78年。この大ホールをお客さんでいっぱいにするのが夢だったので、感激のあまり足が震えました。以来、193回、この舞台に立ちました。僕はここの音響が大好きです。小さな声も2階席の一番奥までしっかり届く。ぬくもりのある「音楽的な音」がする。神様がつくったホールだと思っています。

 ■綾戸智絵さん 一緒に走り続けましょう

 もう50年目……そうですか!?

 あなたも、20年と20年と10年生きたんですね。

 来ていただいたお客様に作っていただいた50年。私は、あなたがもう中年になった頃から、やっとお仲間にしていただきました。

 これからも、一緒に走り続けていきましょう。私はゆっくりついていきたいと思います。(綾戸さんからのメール)

 ■山下達郎さん 観客との一体感 抜群

 フェスティバルホールは、まごうかたなき日本で最高のコンサートホールであり、私ももう25年以上お世話になっています。演じてよし、観(み)てなおよし、観客との一体感はまるで大きなライブハウスのようです。

 数々の伝説に彩られた50年が、また新たな未来へのスタートとなりますように。近いうちにまたフェスの舞台に立てる日を楽しみに。(山下さんからのメール)

 ホールの一時閉鎖にご理解を

 半世紀にわたりご愛顧頂きましたフェスティバルホールが、新しく生まれ変わることになりました。ファンの皆様には心から御礼申し上げます。伝統に培われた新たな「音楽の殿堂」として、皆様のご期待にお応えしていきたいと思います。一時閉館の間、大変ご迷惑をおかけいたしますが、さらなる飛躍のために格別のご理解を賜りますようお願い申し上げます。(フェスティバルホール支配人・河口隆雄)

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