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ここから本文エリア 飛鳥の美(下) 渡来の技、風土と融合2008年05月09日 法隆寺(奈良県斑鳩町)の金堂壁画は、高松塚、キトラ両古墳の築造と同じ6世紀末〜7世紀初めの時代に生まれた。
聖徳太子が7世紀初めに創建した法隆寺(若草伽藍(がらん))は、「日本書紀」によると、670年に焼失した。法隆寺に伝わる文書類から、現在の西院伽藍の塔や金堂は、711年までに再建されたことが分かる。まさに両古墳の壁画が描かれた時期に重なる。 金堂壁画は、釈迦、薬師、弥勒、阿弥陀の如来(にょらい)を中心にした仏画だ。1949年に主要な壁画は火災で焼損したが、戦前の写真や火災時に取り外されていた飛天(空を飛ぶ天女)の壁画から、絵画技術をうかがうことができる。 とりわけ美しいとされるのが、阿弥陀如来と観音菩薩(ぼさつ)、勢至(せいし)菩薩を描いた西壁の6号壁画だ。彩色に濃淡をつけて立体的に見せる「隈(くま)取り」という技法は、中国・敦煌(とんこう)で唐時代初めの640年ごろに描かれた壁画と共通している。中国最新の技法が法隆寺の壁画に使われていたことになる。 飛鳥時代、朝鮮半島出身の渡来系絵師集団が数多く活躍していた。日本書紀によると、「黄文画師(きぶみのえし)」と「山背画師(やましろのえし)」という高句麗系の絵師集団があった。669年の遣唐使に加わったとされる黄文本実(きぶみのほんじつ)という人物がいる。黄文画師の出身。神戸大学の百橋明穂(どのはし・あきお)教授(美術史)は、金堂壁画制作を指揮した有力候補とみる。「唐の最新の知識や技術を日本に持ち込んでいる」のがその根拠だ。 本実の名は、「日本書紀」「続日本紀(しょくにほんぎ)」に何度か登場する。水平を測る器具を天智天皇に献上し、持統、文武両天皇の葬儀でも重要な役目を担った。絵画に加えて儀礼の幅広い知識を持っていたためとされる。薬師寺に伝わる釈迦の足跡を刻んだ仏足石には、仏足石の図案も本実が唐の都・長安で描き写して持ち帰ったと記されている。 では、高松塚とキトラの壁画はどんな人物が描いたのだろうか。両古墳には共通点が多い。大きさは高松塚の直径23メートルに対してキトラは14メートルと小さいが、どちらも上下2段の円墳で、切り石を箱状に組み合わせた石室を持つ。何より、石室に描かれた四方を守護する神獣・四神の絵はそっくりだ。 奈良文化女子短期大学の来村多加史(きたむら・たかし)教授(日中考古学)は「二つの古墳の四神は原画が同じ。画家も同じ人物」とする。その人物は唐に留学経験があったとし、断定はできないとしながらも、有力候補に本実を挙げる。 「本実の帰国直後の672年に壬申の乱が発生し、本実と同族の黄文大伴が、大海人皇子(おおあまのおうじ)(のちの天武天皇)側について功績をあげている。黄文氏は取り立てられ、本実は絵師のリーダー的地位についたのでしょう」と来村さん。 明日香村在住の日本画家、烏頭尾精(うと・おせい)・京都教育大名誉教授は、飛鳥時代の絵画を詳しく観察してきた。両古墳と法隆寺の壁画は描線に違いがある一方で、同じ「雰囲気」があるという。「どの壁画も、気高さと素晴らしい技術を持つ絵師集団によるものに間違いない。彼らは唐の優れた技術を身につける一方、日本の風土の中で育てられた感性を生かし、独自の作風を作ろうとしたのでしょう」(今井邦彦)
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