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【飛鳥の美】シンポ 飛鳥の謎と文化遺産の保存・活用・国際貢献

2008年05月04日

 古代へのロマンをかき立て、多くの人をひきつける文化遺産と、現代人はどう共存していくべきなのか。奈良県明日香村の飛鳥資料館でキトラ古墳壁画・十二支像が公開されるのを記念して、シンポジウム「飛鳥の謎と文化遺産の保存・活用・国際貢献」(東アジア文化遺産保存学会、明日香村、朝日新聞社主催)が4月27日、東京で開かれた。歴史地理学、文化財学、観光学などの専門家が集まり、活発な議論を交わした。

写真甘樫丘から飛鳥寺周辺を望む。明日香村保存特別措置法などの開発規制があり、高層の建物はない=奈良県明日香村
写真千田稔さん
写真沢田正昭さん
写真杜暁帆さん
写真石森秀三さん
写真黒田乃生さん
写真菊池誠一さん

     ◇

◇特別講演・討論

千田稔(せんだ・みのる)(国際日本文化研究センター名誉教授・歴史地理学)
沢田正昭(さわだ・まさあき)(国士舘大教授・文化財保存科学)
杜暁帆(と・ぎょうはん)(ユネスコ北京事務所文化遺産保護プロジェクト担当官・美術史)

◇討論

石森秀三(いしもり・しゅうぞう)(北海道大教授・観光文明学)
菊池誠一(きくち・せいいち)(昭和女子大教授・東南アジア考古学)
黒田乃生(くろだ・のぶ)(筑波大准教授・造園学)

司会は朝日新聞記者・天野幸弘(あまの・ゆきひろ)

     ◇

◎「皇子の墓」同意できぬ 千田稔さん

 飛鳥時代は推古天皇の時代に始まるとされる。それ以後の歴代天皇の治世に比べて長く、安定もしていたが、これは天皇の力というより、蘇我氏政治の安定期だったといえる。推古朝の豊浦宮、小墾田宮(おはりだのみや)については、近年の発掘調査でも不明な点が多い。

 続く舒明(じょめい)天皇の時代、宮は飛鳥の中心部に移り、名実ともに「飛鳥時代」になる。跡を継いだ妻の皇極(のちに斉明)天皇は道教に傾倒し、舒明天皇の墓を道教的世界観を示す八角形にした。「天皇」の称号も、このころに道教の最高神・天皇大帝からとったものだろう。飛鳥池遺跡の亀形石造物は道教で神仙の理想世界を支えるとされたカメではないか。

 このほかにも、明日香村では近年の発掘調査で皇極期以降の遺跡が様々に見つかっている。飛鳥池遺跡では当時の技術レベルを示す工房跡が見つかり、甘樫丘(あまかしのおか)のふもとでは蘇我入鹿の邸宅の一部と推定される遺跡も確認された。日本書紀などの記述と関連づけられる発見も続いている。

 694年、持統天皇は天武天皇が飛鳥の北に建設した藤原京に遷都する。高松塚古墳やキトラ古墳は、その中心道路である朱雀大路のほぼ延長線上にあるため、天武天皇の皇子の墓という説があるが、当時の皇子の墓は八角墳だったはずで、私は同意できない。

     ◇

◎修復にアジアの技融合 沢田正昭さん

 昨年11月、韓国、中国、日本の研究者約400人が参加して、東アジア文化遺産保存学会を立ち上げた。

 法隆寺は、世界最古の木造建築といわれているが、火災にも遭って何度も修理をしている。一方、石造文化財が中心のヨーロッパでは、当初の素材がそのまま残っている。両者では文化財の修理や復元が妥当かどうかという「真正性」の認識や解釈が異なる。

 石ひとつ保存するにも、それぞれの国の考え方がある。気候や風土も異なる。たとえば、カンボジアのアンコール遺跡では日本も保存に協力しているが、雨が多く、コケの繁茂も問題になる。それぞれの環境に見合う保存材料の開発から始めねばならない。

 キトラ古墳壁画のはぎ取りに成功した技術を、日本はエジプトの地下墳墓の壁画に応用した。装こう技術といって、壁画に和紙などを張り付けてはぎ取った後、その裏面を強化して元に戻す。塑像(土製の像)が多くある中国の石窟(せっくつ)遺跡、麦積山(ばくせきざん)でも日本の文化財保存の技術が使われている。

 文化遺産の保存修復は、その中に蓄積された歴史や文化の情報も共有している。現場で意見を聞き、自分の考えも伝え、互いの技術を獲得する。そうした融合のうえに、アジア独自の新しい修復のありようがあるのではないか。

     ◇

◎住民の生活 まず考えよ 杜暁帆さん

 いま中国で文化遺産といえば、ユネスコの世界遺産が思い浮かぶ。万里の長城や道教の聖地である山東省・泰山など35カ所あり、観光の看板になる一方で、問題も生じている。たとえば14世紀の町並みがそのまま残っている山西省の平遥古城は観光客が増えたが、遺産保護のため開発に制限があり、住民生活は20年前とあまり変わらない。

 無形文化遺産にも問題がある。南部の貴州省の少数民族には、村の全家庭で一斉に牛を殺してささげる祭りがあるが、牛は高価で、祭りの保存が生活向上の足かせになる。

 文化遺産の修復技術は戦国時代(紀元前403〜同221年)から存在したが、近代的な保存修復は20世紀に発達した。80年代から日本と共同で敦煌の壁画保存を始めている。一方、ドイツの研究者と共同修復した金属器はぴかぴかになったが、中国の専門家にはこれを認めない人もいる。どこまで修復するか理念の交流も必要だ。技術者も足りず後継者不足は深刻だ。

 伝統的建造物が文化遺産に登録されれば住民は生活の改善を期待するが、建造物保護のため経済的発展は難しくなる。生活とかかわる遺跡は住民の生活をまず考える必要がある。誰のための保存なのか、中国は保護の理念や哲学をまだまだ考えねばならない。

     ◇

 ――キトラ古墳、高松塚古墳の壁画の保存状態は。

 沢田 キトラ古墳の方は、壁画がいまにも落ちそうな状態だったのを外して、しかるべき環境で保管することにした。高松塚古墳の方は環境が劣悪になってカビが発生、結局、石室ごと解体保存というかたちになった。

 千田 どちらの壁画も、置かれた状況から、保存にはそれしかなかった。

 杜 中国でも高松塚、キトラ古墳については関心をもたれている。

 菊池 ほぼ同じ時期に壁画が見つかった茨城県の虎塚古墳は、壁画の保存がうまくいってるそうだ。

 沢田 古墳壁画というのは、温度、湿度などの環境を調査前に調べるものだが、高松塚はその時間がなかった。それに掘るところから、同じ人間が状況を踏まえながらケアしていくべきだが、高松塚の管理態勢では担当者が代わっていった面もある。

 ――観光との関連は。

 石森 今の観光は量でなく質が問われる。たとえば明日香村なら、1週間の滞在に値する情報やサービスを地域が提供できるかどうかだ。

 ――会場におられる明日香村長のご意見を。

 関義清村長 明日香村保存特別措置法の施行から20年、村は文化財を凍結的に保存するだけだったが、8年前から積極的活用に踏み出した。滞在型の宿泊施設の可能性なども模索している。

 ――ベトナムはどうか。

 菊池 99年に世界遺産になったホイアンでは観光開発のため、まともな考古学調査をせぬまま土を掘ったり埋めたりしている。地中の文化遺産が危機にひんしている。

 ――観光化と歴史景観の折り合いを、どうつけるのか。

 黒田 景観整備は、やりすぎると厚化粧のようで、違和感がある。かといって、ボロボロのままではだれも来てくれない。身の丈にあったかたちがいい。どこまでわざとらしくなくできるか、個々の事例について、専門家が集まって考えるしかない。

 ――文化遺産保護での国際貢献は。

 沢田 日本というと技術が進み、機材もいいというイメージがある。だが、そういうものを押しつけていくのは、間違いだ。地域に応じたかたちが出発点だ。

 菊池 ベトナムのドゥオンラムという農村では、私の大学と奈良文化財研究所とで、伝統建築保存の技術移転をしている。そこでは、日本の経験が生かされている。

 杜 中国の文化財保護についての国際交流は、80年代の初めから活発化している。ただ、考え方は日本と少し違い、対象が多すぎる中国では、精密な日本と同じようなやり方はできないが。

 ――日本が学ぶことは。

 石森 日本は観光後進国だから、外国から学ぶことは多い。文化遺産の場合、日本では保護と活用が切り離され、地域住民が文化遺産とともに生きる方策を描けるマネジメントの人材がいない。

 ――最後にご提言を。

 黒田 国営飛鳥歴史公園のアンケート結果で好きな風景の第2位は棚田だった。文化遺産を前提とした質問でこういう答えが来ることは重要だ。文化財保存の技術も大切だが、「風景」を守る技術者の育成も考えては。

 菊池 東南アジアの各地には、文化遺産の専門研究保護機関である「フランス極東学院」の施設がある。日本もこうした機関を作って若手育成と技術移転をすべきだ。

 杜 文化遺産のある地域で生活する人を重要な要素ととらえれば、地域の活力を引き出せるだろう。

 石森 道路特定財源があるのなら、文化特定財源があってもいい。

 沢田 日本の政治家が一番軽視しているのは文化力だ。6〜7世紀に日本の歴史を動かす中で、東アジアを見据えた国際戦略があったという飛鳥から、日本の文化力を再度つくりあげてほしい。

 千田 明日香村にデジタル映像で東アジアの壁画を見られる資料館を造っては。村に壁画を集められれば、壁画の劣化で傷ついた住民の心も癒やされるかもしれない。

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