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かんだい 明日香 まほろば講座

2008年7月9日

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写真菅谷 文則氏(すがや・ふみのり)
滋賀県立大学名誉教授(日本考古学)写真木下 正史氏(きのした・まさし)
東京学芸大学特任教授(日本考古学)写真広瀬 和雄氏(ひろせ・かずお)
国立歴史民俗博物館教授(日本考古学)写真高橋 隆博氏(たかはし・たかひろ)
関西大学博物館館長(美術工芸史)写真上田 正昭氏(うえだ・まさあき)
京都大学名誉教授(古代日本・アジア史)写真徳田 誠志氏(とくだ・まさし)
宮内庁陵墓課首席研究官(日本考古学)

 奈良県明日香村と関西大学(大阪府吹田市)が共催するシンポジウム「かんだい 明日香 まほろば講座」(朝日新聞社後援)が6月29日、東京・有楽町朝日ホールで開かれた。72年に村の高松塚古墳を発掘し、「考古学の戦後最大の成果」と言われる極彩色壁画を発見したのが、網干善教(よしのり)名誉教授(故人)が率いる関西大考古学研究室。それ以来、村と関西大は様々な連携事業を進めてきた。今回のシンポジウムは関西大東京センターで定期的に開催される講座の1回目を兼ねており、村の文化財の重要さと活用の可能性について、考古学者らが語り合った。(司会は天野幸弘・朝日新聞記者)

 ――皆さんと飛鳥のかかわりは。

 菅谷 奈良県立橿原考古学研究所に在勤中、明日香村の宮跡の調査を担当し、飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の場所を突き止める幸運に恵まれた。

 木下 奈良国立文化財研究所(現・奈良文化財研究所)で20年余り飛鳥・藤原地域を発掘した。今は明日香村の文化財顧問として、世界遺産推薦のための暫定リスト入りした「飛鳥・藤原の宮都とその関連資産群」の4〜5年内の登録を目指している。

 広瀬 明日香村には律令以前の国家を象徴する前方後円墳と、律令国家につながる飛鳥宮という、二つの古代国家を表すモニュメントが共存している点に注目してきた。伝統的な文化と中国風の新しい文化が共存していた場所は、日本でここだけだ。

 高橋 私は美術工芸が専門だが、関西大に入ったきっかけは、父から『末永雅雄という先生に教わっては』と勧められたからだ。末永先生は橿原考古学研究所長と関西大の教授を兼任し、長年、飛鳥の発掘を手がけていた。私は結局、考古学ではなく中世史に進んだが……。

 ――明日香村の調査で、どんなことが分かってきたか。

 菅谷 645年の大化の改新以来、710年の平城遷都まで、飛鳥と藤原京(現在の奈良県橿原市)には天皇の宮が置かれ、紛れもなく日本の中心だった。この時代、天武天皇は飛鳥浄御原宮にあって、中国的な律令の法制度を整え、天皇の大権を大いに活用して、日本中が一つになるように仕向けた。しかし土地が狭く、機構拡大が難しくなって、藤原京に移った。

 木下 「飛鳥」がどの範囲を指すかは、世界遺産の暫定リストに載った「飛鳥・藤原の宮都と関連資産群」の範囲もからむ問題だ。様々な施設が集中する飛鳥盆地の南北2キロほどの範囲と、陵墓の地である西南の檜前(ひのくま)の地域は確実に含まれる。私は大和三山も含めた藤原京の範囲から、檜前までの南北6キロ、東西5キロほどの範囲を古代の「飛鳥」と考えている。

 広瀬 5世紀には巨大な古墳が河内と大和の四つの古墳群に集中しており、4人の豪族による共同統治のシステムがあったと見られる。6世紀にはこれらの豪族は奈良盆地の南半部に移り、天皇家の祖先は飛鳥地域に本拠を置いた。しかし中国で隋・唐帝国が成立すると、その進出に対抗するため、日本でも集権的な官僚機構による国家統治システムがつくられた。その時に造られたのが藤原京だ。それより前の段階では統治機構が未整備なので、政治中枢の飛鳥は狭い範囲を想定すればいいのではないか。

 高橋 古代から重視された三輪山や、箸墓古墳など周辺の古墳群を含めなくていいのかという問題もある。世界遺産の哲学をどこに置くかで範囲も変わるだろう。

 木下 上田先生は古代国家が整備された時期を天武・持統朝に置かれたが、私は国の形が大きく変わったのは蘇我氏が滅ぼされた大化改新のクーデターの前後だと考える。斉明天皇が盛んに建設工事をしたという記録は、この時期に飛鳥に「京」が整備され、都市的な景観になったことを示している。斉明に批判的な記述が日本書紀に多いのは、都づくりの大規模な土木工事が行き過ぎとして批判・反発を受けたためだろう。

 菅谷 斉明朝は「狂心渠(たぶれごころのみぞ)」を造ったといわれた。運河を掘り、神がまします石上山から石を運んだことが批判されたのだ。「たぶれごころ」というデリケートな言葉に古代人の心を感じる。

 ――飛鳥には多くの宮殿や寺院の遺跡があるが、復元されていない。難しいのか。

 菅谷 飛鳥浄御原宮で調査された範囲は3割くらいだ。遺構の上にあった建物を復元しようにも、モデルになるような飛鳥時代の建物が残っておらず、復元しようがない。飛鳥寺では発掘調査をもとに復元図ができている。

 木下 伊勢神宮の本殿や、京都御所の紫宸殿(ししんでん)が、宮殿や役所の建物を復元する手がかりになるかもしれない。ただ、復元はお金がかかり、管理も難しい。飛鳥は様々な石造物や石敷きに飾られた「石の都」。それを見せることを柱にし、積極的に復元しなくてもいいのではないか。

 広瀬 建物を復元するにしてもしないにしても、そこにどんな建物があったかを学術的に推定し、そのプロセスを現地で分かりやすく説明すべきだ。木造建築は腐ると柱などの穴しか残らないが、何があったか想像するという楽しみ方もある。

 ――会場におられる明日香村長のお考えは。

 関義清村長 建物をすべて復元することが飛鳥に似合うのかと疑問に思う。その一方で、一般にはそこにどんな建物があったか、何もわからないままにしておくことにも疑問を感じる。学者の研究材料という価値だけで文化財を守っていくのはしんどい。三次元映像などを使い、目や耳で古代の飛鳥を体験する方法に期待をしている。

 ――今後、明日香村では遺跡をどう活用すべきか。

 高橋 遺跡の建物復元が、観光や教育など様々な思惑から各地で盛んになっているが、手がかりが少なく正確に復元ができない木造建築については、あまり意味がないように思う。今、明日香村には本格的な研究施設がない。遺跡の修復・復元の研究と展示の機能を持った「飛鳥ミュージアム」をつくり、石造物や壁画の修復技術者の育成も手がけてはどうだろう。

 菅谷 これ以上村内に新しい施設はつくるべきではない。研究・展示のための施設をつくるなら、県立万葉文化館の一部を借りるなどの方法もある。また、総合大学の強みを生かし、飛鳥の歴史研究や復元技術の開発、明日香村特別措置法の活用方法などを総合的に研究する機関を関西大につくって欲しい。場所は村内でなくてもいい。

 広瀬 私も博物館などのハードはもう必要ないと思う。全国の遺跡や博物館、歴史公園をどう結び、活用するかという優れたソフトをつくってもらいたい。訪れた人々にとっての「非日常」をどう演出し、楽しませるかを研究し、短期滞在型で質の高い観光を提供する村にすべきだ。

 木下 飛鳥諸宮・藤原京跡の世界遺産登録を目指すなら、建物の復元による「厚化粧」ではなく、現在の様々な制度を利用して、訪れた人が飛鳥の風景をイメージできる仕組みを工夫する方がいい。その中で村長が提唱する「全村まるごと博物館」構想も具体化するはず。また地味だが、そこへ行けば飛鳥に関する図書資料が何でもある、という「飛鳥情報館」もほしい。

■壁画に「和魂漢才」の輝き 上田正昭氏

 飛鳥時代は推古天皇(在位592〜628年)の時代から約100年を指すが、7世紀後半から8世紀初めの奈良県明日香村を中心とする飛鳥地域の文化は、それ以前に比べ大きく変化する。新たな時代名が必要だと思う。

 660年に百済が唐・新羅の連合軍に滅ぼされ、倭(わ)国は朝鮮半島に出兵するが、663年に白村江の戦いで大敗北した。そして667年、都が飛鳥から近江の大津に移った。大津を選んだ理由は交通路の要衝だからという説が有力だが、高句麗を強く意識した要素もある。唐・新羅連合軍は百済の次に高句麗を滅ぼそうとした。大津は北陸に上陸した高句麗使節が大和に入る際に通過した場所で、遷都の翌年には高句麗最後の使節が大津に来ている。

 「日本」の名称が文献に登場するのは天武天皇(在位673〜686年)・持統天皇(同690〜697年)期だ。中国の「新唐書」には670年以降、倭国が日本と号したと記されている。「天皇」の称号は701年の大宝令に登場する。従って、飛鳥時代前半は厳密には日本文化が成立した時代とはいえない。日本という国号がまだ使われていないからだ。

 明日香村の飛鳥池から出た天武朝の木簡に書かれた「天皇」の文字は、天皇の称号がこの時期には確実に使われていたことを教えてくれる。

 そして7世紀末にキトラ古墳、8世紀初めに高松塚古墳が築造された。高松塚古墳の壁画は唐や朝鮮から影響を受けている。「飛鳥美人」の髪形は生え際まで丁寧に描かれ、後の大和絵につながる日本独自の画風だ。「和魂漢才」の輝きを感じる。

■「実証主義」飛鳥で学んだ 徳田誠志氏

 私は1980年に関西大学に入学し、故・網干善教名誉教授の研究室で考古学を学んだ。キトラ古墳の測量に参加したのは3年生だった82年。ファイバースコープで最初に玄武の壁画が発見される前の年だったが、網干先生はすでに古墳の重要性を見抜いており、「これほどの古墳にはちゃんとした測量をしなければいけない」と話していた。

 網干先生は長年、明日香村内を隅々まで歩き回り、自分の目で確かめていた。だからこそ、重要な遺跡を次々と見つけることができたのだろう。高松塚古墳、キトラ古墳の研究にもデータを集めながら地道に取り組まれ、亡くなる直前まで、遺作となった著書「壁画古墳の研究」の原稿に手を入れていた。研究への情熱というものを、言葉でなく身をもって教えられた。

 私は現在、宮内庁書陵部の陵墓課で天皇陵や皇族墓の調査、研究に従事している。明日香村には欽明陵、天武・持統合葬陵、文武陵の三つの天皇陵があり、いずれも飛鳥時代を考える上で重要だ。

 97年に欽明陵(梅山古墳)を調査し、墳丘のすそにきれいに石が敷き詰められているのを確認できた。真の欽明天皇陵は橿原市の見瀬丸山古墳だとする人が多いが、私は石敷きや出土した土器などから、現在の欽明陵が欽明天皇の墓でよいと考えている。天皇陵が方墳や八角形墳へと変わる直前の前方後円墳として注目される。

 宮内庁の調査には「考古学的に不十分だ」という意見と、「もっと陵墓としての本義を大切にして」という意見がある。私は、飛鳥での調査で教えられた「実証主義」を大切にして研究に当たりたい。

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