鶴見和子さん
「姉は美しかった。亡くなってもきれいでした」と語る内山さん=東京都世田谷区
表紙に、姉にもらって大切にした鳥の人形のイラストをあしらった
「『ひとが死ぬとは、どういうことか。私をフィールドワークせよ』と姉はいいました」。姉とは、脳出血後の左半身不随と闘いながら、書き、語り続けた、社会学者で歌人の鶴見和子さん。06年7月31日、88歳で亡くなった。その最後の走りを見届けた妹・内山章子(あやこ)さん(80)が、看(み)取りの記録『鶴見和子病床日誌』を三回忌に寄せて自費出版した。
■死見据えた日々克明に■
鶴見さんは95年に脳出血で昏倒(こんとう)し、97年から京都府宇治市の高齢者施設で自立した生活を送ってきた。しかし、06年5月に背骨を圧迫骨折。以降、徐々に衰弱していったという。
「死にゆく人がどんな歌を詠み、何を考え、何を思って死んでゆくのかを、あなたは客観的に記録しなさい」。入院した翌日、鶴見さんは内山さんに告げた。6月20日のことだ。この日から姉のベッドサイドで、内山さんは中型の画帳に、「なんでも」記した。内山さんができないときには鶴見さんの弟で哲学者の鶴見俊輔さんの妻や、内山さんの長女、次女が書き、ひと月余りで3冊に。死を見据える日々の記録が遺(のこ)された。
人は必ず死ぬ。逃げることはできない。ならば受け止めよう――それが姉の思想だった。
■「死ぬっておもしろい。こんなの初めて」兄と大笑い■
6月21日。医師の所見。「予断を許さない状態」
6月22日。昼食 かき卵汁(ほか)一時間半かけて食べる。(略)今日は一日短歌の日であった。〈昨日(きど)の夜死ぬかと思え目覚むれば 朝の日は差すまだ生きてあり〉ほか詠草の記録も。
「『きちんといい遺したい』と姉は饒舌(じょうぜつ)でした。42年に日米交換船で帰国したころのこと、父が倒れる前夜の記憶など、私が知らなかったことを事細かに」。父は、元厚相で作家の鶴見祐輔氏。
「姉は父に『教育者としては優秀だが政治家にはむかない』といったそうです。その言葉が父を打ちのめしたという責任感から14年間、自分は父を看病したのだと。そういうこともみんな言い遺したかったのじゃないでしょうか」
6月26日。大腸癌(がん)が確認される。リンパ節に及ぶ、との医師の所見。兄との約束(略)告知はしない。(略)心不全気味ということにする。
7月1日。すぐウトウトする。声に力がない。4日。この何日か和歌も出来ない。
7月5日。「朝の光が見えて嬉(うれ)しい」「生きていることの確認」と呟(つぶや)く。
7月13日。「歌が出来た」という。(略)〈ここで死ぬか 部屋に帰って死ぬか 主治医にさえも 私にさえもわからない 目覚むれば人の声するまだ生きてをり〉「これが最後になるか」と呟く。
「うなぎがたべたい」「キチッと座りたい」と要求する日も。
一日眠る日もあった。
7月24日。〈そよそよと宇治高原の梅雨晴れの風に吹かれて最後の日々を妹と過ごす〉 「私にしては静かすぎるかな?」と辞世の歌を詠(うた)う。夜。「もう終(おわ)りだと思うの(略)ありがとうございました。私の空色の着物は箪笥(たんす)にあります。お別れの写真も……」
翌朝。「昨日の遺言はお笑いね」「私の計画通り死ねなかったワ」。同夕。点滴を忌避。「止めて下さい。ばかばかしい。もう終りです」
その後の俊輔さんとの会話を内山さんは忘れることができない。
「『死ぬっておもしろいことねえ。こんなの初めて』と姉がいい、兄は『そう、人生とは驚くべきものだ』ですって。2人で大笑いしてるの」
7月27日。「私の骨は私が神島の海に撒(ま)きますから」。居合わせた医師に、和歌山の神島と民俗学者・南方熊楠の由縁について話した。
そして31日。「貞子さん(俊輔さんの妻)が『きれいな朝ですねえ』というと姉は『そうねえ』」。血圧が下がり始める。正午。俊輔夫妻、内山さんら家族が臨終を見守った。
◇
駄々っ子みたいに介護者を困らせもした。〈早く死にたい早く死にたくない……〉という歌も残る。だが2年たって記録を見返し、気づいたことがある。鶴見さんは「すまないね」「ごめんね」とは言わなかった。いつも「ありがとう」だった。「いつも満面の笑みで感謝してくれた。だからまた何かしてあげたい、そう思ってました」
「『お姉様よくがんばられました』といったら、『ハイッ』。これが最期のことばです。がんばったんです、姉は。よく生きたひとのよき死でした。それを子や孫に伝えたい。兄に選んでもらって親交のあった方々にも、と。それが出版の動機です」。年譜や内山さんのエッセーなどを含めて約230ページ。私家版として500部刷って、近親者らに贈る。(河合真帆)