研究室で資料を読む新村拓さん。『死と病と看護の社会史』など、医療と社会をテーマにした著作の執筆を続けてきた=神奈川県相模原市の北里大学、門間新弥撮影
死ぬ時は住み慣れた自宅で――。そう考える人は少なくない。しかし、現在、死者の8割は病院死。一方、彼らの過半数は、実はそれを望んでいなかったというショッキングなデータもある。家族を看取(みと)ることの意味とは何なのだろう。看取りによって得られるものとは。『在宅死の時代』などの著書がある北里大教授の新村拓(しんむらたく)さん(61)に聞いた。
■30年前に逆転
今でこそ、病院死が当たり前と思っている私たちだが、こうなったのは、それほど古いことではない。病院死と在宅死の割合が逆転したのは1977年。51年には約9割の人が在宅死だった。
新村さんが明治〜大正時代の日記などを調べたところ、当時は入院するのはむしろ少数派で、中流階級でも、派出看護婦などを雇って家で養生するのが普通だった。「富裕層は病気になれば、医師を複数呼んで合同診察を受けることさえできましたが、中流より下になると往診してくれないこともあった。一般の人にとって死は常に隣り合わせの存在だったんです」
そんな状況では、看取りは家族親族が中心で行われることになる。
それを支えるための教育もあった。明治時代から戦前にかけて、高等女学校では、家政学の授業の一環として、看護や看取りの教育が実施されていた。農村女子青年団などでも同様の講習があったという。当時出版された『実用看護法』や『実践家政学講義』『家政講話』といった教科書には、看取りの方法が記されている。
「先(ま)ず臥褥(がじょく)を整理し、見苦しい有様(ありさま)の無いやうにして、静かに」(『家政講話』)。「親愛を盡(つく)し、安然の終命を遂しむる」(『派出看護婦心得』)。
寝る場所をきちんとし、見苦しくないよう、静かに、最期の時を迎えさせる――。そこには、穏やかに死を迎えるための環境づくりの重要性が説かれている。
たとえばベッドの作り方、病室のあり方……。「部屋の明るさから室温まで、非常に具体的。さらに、看護者ではなく、あくまで臨死者にとって快適な環境を保つようにと、強調している」
死亡の判定についても、「口や鼻の前に置いた鏡が曇るか否か」「瞳孔に光をあててみる」などの方法で、呼吸停止や瞳孔が開いていることを確認する。死後は、目と口を閉ざし、鼻、口、肛門(こうもん)などに脱脂綿やぼろ布をさいたものなどを詰め、全身をきれいにふいて棺に安置するなど、細かい指示がなされている。
「でも、むしろ重要なのは、家族を看取り、自分たちで死後の処置まで行うことで、死というものを受け入れることだったのではないでしょうか」と新村さん。
高度成長期のころまでは伝えられていた看取りの文化も、病院死が増えるにつれて忘れられ、祖父母の臨終に立ち会うといった形で肉親の死を身近に経験する機会も、減ってきている。
「死ぬと、人は冷たくなり、硬くなる。それが命を失うこと。若い世代の人たちの多くは、この命の尊厳がわかっていない。その人の命は世界に一つしかない。代替がきくものではないんです」
「死を知らない者に、生のいとおしさはわからない。死を考えることによって、私たちの生はむしろ凝縮されるんです。だとすれば、遠ざかってしまった死を、看取りを介して生活の場に取り戻すことは、私たちにとって必要なことではないでしょうか」
新村さんは、7年間自宅で介護した父親を88年に看取った。今も、一人暮らしの母親の家まで介護に通っている。「父とは意見があわず、私は高校以来、ほとんど口をきかなくなっていました。でも、父の認知症が進んだことで、逆に私は素直に正面から向き合う機会を得ることができた」と振り返る。「体をふいたり、頭をなでると、すごくうれしそうな顔をしてくれた。それが介護を続ける力になりました」
■支える環境を
とはいえ、介護保険もない時代だった。母と二人で面倒を見ていたものの、次第に体力が続かなくなり、最後は新村さん自身、精神的にも極限に近いところまで追いつめられたという。「父が『うなぎが食べたい』といった時、私には買いに行く気力すらなかった。そのことが今も悔やまれます」。かつての家政学がそうであったように、豊かな看取りにはそれを支える環境整備が必要なのだろう。
「お年寄りの多くは、家族に遠慮して『施設でもいいよ、病院に入れてくれていいよ』と言うことが多い。でも、入院すれば、家はもちろん、自分が住んでいた町を離れることになりかねない。そんななか、家族に看取られることは、『家族のために働いてきたこれまでの自分の人生は間違っていなかった』という家族の絆を確認することにつながる。病院死が多数を占める今こそ、看取り、看取られることの意味をもう一度考えてみて欲しい」(宮代栄一)