生家があった場所に立ち当時を語る田辺雅章さん=広島市中区、青山芳久撮影
CGで再現された爆心地。後方に産業奨励館が見える
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田辺さんの生家。母と弟はこの台所で亡くなった可能性が高いという
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郵便局。働いていたすべての人が一瞬でその命を奪われた
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細工町の町並み。左端はビリヤード店、その右隣は食堂=いずれもナック映像センター提供
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原爆ドームがまだ広島県産業奨励館という名で呼ばれていたころ、爆心地付近の街角には謡曲が流れ、子どもたちの歓声が響いていた。子ども時代をここで過ごした映像作家が約10年をかけてコンピューター・グラフィックス(CG)を使って復元した原爆投下前の町並みの3本の映像がDVDブックにまとまり、この夏出版された。後世に、原爆が奪ったものの大きさを伝えようと。
江戸時代に能役者や囃子方(はやしかた)ら藩主のお側衆(そばしゅう)が住んだ「猿楽町」。能衣装や和楽器などの細工師が暮らした「細工町」。今の広島市中区大手町1丁目のあたり。爆心直下の産業奨励館の周囲には、約260世帯が暮らす城下町の風情漂う町があった。旅館、運動具店、写真館、病院などが軒を連ね、町家からは謡曲が聞こえた。「日棚」と呼ばれる屋根の上の物干し台が子どもたちの遊び場だった。
広島市の「ナック映像センター」社長、田辺雅章さん(70)はそんな町で生まれ育った。家は産業奨励館の隣だった。原爆投下当時は7歳。山口県高水村(現・周南市)に疎開していて直撃は免れたが、両親と弟を亡くした。自身も投下2日後に広島に戻り、被爆した。祖母と2人で親類の家を転々とした。
中学生になると、被爆証言を集めたり、平和団体と交流したりして、校長から度々注意され、友人は去っていった。それ以来、被爆体験を封印した。路面電車ではドームに背を向けて座った。36歳で映像会社をおこしてからも、原爆にかかわる仕事はかたくなに断った。
還暦を目前にしたころ、転機が訪れた。ドーム前で女子高校生に写真撮影を頼まれた。ファインダーをのぞくと笑顔の生徒が「イエーイ!」。ふと、フレームの片隅に母と弟が眠る生家跡が見えた。「原爆の記憶が薄れつつある。CGでふるさとの家並みを復元しよう」。そう決意した。映像作家になった自分の「天命」とも感じた。
被爆前の町を知る人を探し出し、当時の様子を聞き取るため、97年に元住民とともに連絡組織をつくった。記憶を頼りに白地図を1戸ずつ埋めていった。生存者は当時の写真を持ち寄り、翌年、第1弾となる産業奨励館を中心とした復元映像が完成した。田辺さんは米国立公文書館に何度も通い、入手した被爆前の航空写真からは建物の位置を割り出した。02年には猿楽町を、05年には細工町を再現するとともに、投下直前から爆発の瞬間までを描いた。インタビューした人は165人にのぼった。
CGの町では謡曲や虫の音、台所でリズム良く響く包丁の音が聞こえる。商店の中からは「いらっしゃい」の声もする。だが、人の姿はどこにもない。「直後に数千度の熱で焼かれることを思うと耐えられなかった」と田辺さん。
3本の映像はこれまで国連本部で上映されたほか、500近い学校に教材として貸し出されてきた。
そして今年、112ページに及ぶ回顧録を書き下ろし、3本の再現映像を60分に編集して、DVDブック『ぼくの家はここにあった 爆心地〜ヒロシマの記録〜』(朝日新聞出版、3800円・税別)を出版した。 田辺さんは「これは孫の世代への遺言。あの日の出来事を忘れたとき、再びあの日が繰り返される」と語る。(石田貴子)