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【変の風景】新幹線・0系の声を聞いた気がする

2008年12月19日

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写真車両所に、鼻先を取り外された0系の先頭車両がたたずんでいた=16日、福岡県那珂川町、新井義顕撮影

 幼い頃からのあこがれだった。新幹線の開業から44年間走り続けた「0(ゼロ)系」。記者になる前、車掌として乗務した経験がある。14日のさよなら運転を終え、翌日には車両の解体が始まったと聞いた。いなくなってしまう君に、一言、声をかけたかった。「本当にありがとう。お疲れ様」

 解体現場は九州だった。JR西日本博多総合車両所(福岡県那珂川町)。2011年の九州新幹線全線開業に向け、試運転中のN700系など、最新鋭の新幹線がずらりと並ぶ。はずれの方に、0系を見つけた。普段は使われない着発線上にぽつんと1両。生い茂ったススキの間から、丸い顔をのぞかせていた。

 14日に新大阪から博多まで最後の花道を飾った6両編成の先頭車。「団子っ鼻」と称され、0系の象徴だった正面の連結器のカバーが取り外されていた。まるで、大きく口を開けているようだ。

 「ガチャン、ガチャン」。車両所の空き地から、すでにスクラップになった別の0系の破片を拾い上げる重機の音が響いた。最後に残った0系は全3編成の18両。最終運転に向け、すべて開業当時のクリーム色とブルーのツートンカラーにお色直しされた。引き取りの打診が数件あるというが、目の前の0系は解体後、素材ごとに分別し、新たな用途で再利用されるという。

 福岡出身の私が初めて0系に乗ったのは、1歳の時。新幹線が博多まで延伸した75年、祖父母と一緒に岡山まで行った。幼稚園では、七夕の短冊に「しんかんせんのうんてんしゅになれますように」と書いた。大学を卒業し、97年にJR東海に入社、東海道新幹線の車掌になった。当時はまだ東海道に0系が走っていた。

 あこがれの0系の乗務はうれしかった。アルミ製の最新車両に比べ、車体は鋼鉄製で、乗務員室のドアもずしりと重い。手を挟んで血豆ができた。冷房の調子が悪いと、夏でも凍えるほど寒い。車内巡回をしても、客席はガラガラ。最高時速220キロは新幹線で最も遅かった。

 所属していた大阪車掌所では、新大阪〜博多間を世界最速(当時)の時速300キロで営業走行する「500系」の話題で持ちきりだった。それでも0系には、どんな新型車両もかなわない魅力があった。

 14日の最終走行で、山下工業所(山口県下松市)の山下清登社長(73)と出会った。出発直前、ゾウがほえるような力強い警笛が響いた。「新幹線の中で一番かっこよく、かわいいと思っている」。64年のデビュー当時から、ハンマー一本で0系の丸い先頭部をつくってきた山下社長は目を細めた。

 解体現場を歩きながら、0系とともに歩み、27歳で記者に転職した自らの34年間を振り返った。「最後まで全力で走った。お前も頑張れ」。0系の開いた口が、そう語りかけたように思えた。(宮崎勇作)

    ◇

 漢字「変」で表された08年の出来事を記者が追います。

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