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【メメント・モリ】(2) 秘めたあの声 向き合えた

2009年1月14日

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短歌 震災で隣家の家族がれき下 埋もれた声と焼け野原   写真神戸新聞社で働く岡本亜沙美=神戸市中央区、西畑志朗撮影

 「おねえちゃん」

 そんな声を聞いた気がした。迫る炎を前に逃げ出す時だった。

 岡本亜沙美(21)はあの日、小学2年生だった。神戸市長田区の部屋で倒れかかったタンスの下を這(は)い、階段や部屋に散らばったガラスの破片を踏んだ。足の裏に血をにじませ、パジャマ姿で両親と1歳の弟と外に出た。

 周囲の家はつぶれ、黒い煙が空を覆う。火事だった。

 声は、隣に住む小学4年生の恵ちゃんに似ていた。弟のいる長女の自分を「おねえちゃん」と呼んでくれていた。家や公園でママゴトをし、おもちゃを貸しあった。

 「はよ逃げ!」と父。何度も声の方を振り返りながら、避難所の小学校へ走った。

 教室で弟を抱きしめていた。数日後、テレビに恵ちゃん一家5人の名前が映った。「なに?」と父に聞くと「焼け死んだんだよ」と答えた。

 1カ月後、神戸市西区の仮設住宅へ、その半年後には同市須磨区のマンションに引っ越した。どちらも被害が少ない地域だった。

      ■

 「地震どうやった?」。新しい友達に聞かれるたび「家が燃えた」とだけ答えた。

 「幼なじみを失った自分が一番不幸や。地震を知らん人には分からへん」

 中学3年で、いじめや両親の不仲で不登校になった。一晩中、自室にこもりパソコンで作曲した。昼夜逆転の生活。パソコンも学べるからと定時制の神戸工業・情報技術科に入った。

 1年の秋、震災を短歌にする南悟(62)の授業があった。「またか」と思った。

 毎年1月17日が近づくと、小学校でも中学校でも震災の作文を書かされた。あの声の話を避けると、文章がまとまらなかった。消しゴムで何度も消し、原稿用紙に穴をあけた。「音楽は癒やし」。震災とは関係のない内容の歌を詠んだ。

 翌年の短歌の授業。南が黒板に短歌の色紙を並べた。うんざりしながらながめた。1枚に目がとまった。「生き埋めの友に 我は無力」。震災で友を救えなかった卒業生が詠んだ歌の後半だった。

 「苦しいのは自分だけじゃないんや」。短歌のマス目入りのプリントの隅に「埋もれた声」と書いたが、上から二重線を引いて消した。マス目はついに埋まらなかった。

 南は職員室で、岡本の二重線に気づいた。「これ書くのに2年かかったか……」。同じことを何十回も経験してきた。消しゴムの跡が残るプリントを蛍光灯にかざしたこともあった。触れられたくない本音がいつも隠れていた。

 次の授業で、南は「そう言えば長田の子やったよな」。「人に言うもんちゃう」と話をそらそうとする岡本に「先輩はみんな書いとるやないか」と笑いかけた。

 この日から岡本はいつも南を探した。「仲良しの子が生き埋めになってん」。心に秘めていたあの声、黒煙、炎の記憶。授業中や職員室の隣の席で、語り続けた。「つらかってんな」。南はうなずきながら聞いてくれた。

 短歌の清書ではまず「我は無力」と書いた。家も命も奪った震災の怖さを表そうと「焼け野原」と置き換えた。自分を責める気持ちから自由になれた気がした。

      ■

 卒業後、事務員やホテル清掃員を転々とした。1年半前、派遣会社から新聞社の校閲の仕事を紹介された。

 昨年12月4日夜、神戸市中心部の神戸新聞社13階の編集局。朝刊の締め切りが近づき、原稿係のアルバイトが試し刷りを手に走る。

 「1面です」。机に置かれた紙面に神戸ルミナリエの始まりを告げる記事と写真があった。「震災の季節や」。二重線で自分の気持ちを塗りつぶしたころを思い出した。愛用の赤鉛筆を握り直し、太い傍線を引きながら、文章をかみしめるように読み進んだ。敬称略(浅野直樹)

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