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【京都御所と葵祭】斎王物語

2009年4月15日

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写真初代斎王代をつとめた荒田文子さんの当時の写真(荒田さん提供) ※写真をクリックすると拡大します 写真「車争い図屏風・右隻」(江戸時代初頭)。「源氏物語」の六条御息所と葵上の車争いの様子を描いている=京都市歴史資料館蔵 ※写真をクリックすると拡大します

 葵祭(あおいまつり)の初代の斎王代(さいおうだい)を53年前につとめた荒田文子さんは今、「易学あや」の名で占師をしている。京都御所にほど近い住宅地の一角を訪ねると「民間初の『斎王』だったから、両親は相当緊張していました。私は楽しみましたけどね」と振り返ってくれた。

 斎王とは、下鴨と上賀茂の両神社の神にささげられた未婚の皇女だ。戦後に復興した葵祭の行列で、歴史上の斎王の代わりをつとめる斎王代に見初められた。荒田さんが高校3年の時だった。

 両親の知り合いで、京大教授だった有職故実(ゆうそくこじつ)の研究者・猪熊兼繁さんが自宅にきていた。斎王代に適役の若い女性を探していたのだ。あいさつに行くと、こう言われた。「しもぶくれの顔が斎王のイメージにピッタリや!」

 斎王が生まれた背景には、平安初期の政変があった。平安遷都後の混乱や皇位継承を巡り、810年に奈良へ都を戻す企てが発覚。当時の嵯峨天皇が両神社の神に祈願して勝ち抜き、お礼に自分の娘をささげたのが始まりとされる。約400年間で35代の斎王が選ばれた。

 斎王になると皇女の暮らしは変わる。斎院(さいいん)御所と呼ばれた場所で心身を清め、祭礼の日に優美な列をなして神社に向かった。今日の葵祭の行列の源流とされている。

 今の斎王代は皇女でなく民間から選ばれており、行列そのものが、あまりにも観光化されてしまったという批判もある。「でも、平安のころにも、見物して楽しんでいたようですよ」と葵祭行列保存会会長の猪熊兼勝さんは言う。初代斎王代を見いだした猪熊教授の息子だ。

 行列をめぐる平安期の観光気分は源氏物語にも描かれている。有名な「車争い」の一幕がそれにあたる。

 斎王の列に光源氏も参加したものだから、都大路は大混雑。光源氏の正妻・葵上の車と彼の寵愛(ちょうあい)を受けた愛人・六条御息所がぶつかり合った。乱闘の末に、六条御息所の車は隅に押しやられた。「かっこいい光源氏を見ようと集まった。斎王代を見たいと集まる現代人と変わらない」と兼勝さんは笑う。

 源氏物語や枕草子などの平安文学に斎王がしばしば登場するのは、宮廷と深いつながりがあったからだ。斎院御所がどこにあったのかは諸説あるが、いずれも京都御所からさほど遠くはない。女官らが仕え、歴代の斎王や女官には優れた歌人もいた。

 それゆえ、宮廷の文化と運命を共にする。最後の斎王は後鳥羽天皇の皇女だった。鎌倉へと世が移り、武士の時代になると、歴史の舞台から姿を消していく。

    ◇

 〈斎王〉 宮中では神への崇敬の念を表すため、未婚の皇女をささげて、神のそばにつかわせる習わしがあった。下鴨と上賀茂の両神社の斎王に先立ち、伊勢神宮にもささげられており、伊勢の斎王を斎宮(さいくう)と呼ぶこともある。伊勢では14世紀前半までの660年間で60人以上が選ばれた。

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