ここから本文エリア

現在位置:asahi.com>関西>スポーツ> 記事

私の甲子園(1)沢村栄治の一人娘

2008年03月19日

 豊後水道を春の陽気が包んだ2月の昼下がり、美緒(63)がそっと聞いてみた。

写真父に思いをはせる沢村栄治投手の一人娘、美緒さん=愛媛県八幡浜市で
写真京都商時代の沢村栄治投手(右)と山口千万石捕手=山口さん提供

 「私が女で父さん、がっかりしたでしょ」

 88歳の母が大きく首を振る。「『ピンクの肌だ、ピンクだあ』って、あの無口な人が大喜びしたのよ」

 愛媛県八幡浜市。美緒が育ったこの港町に帰郷してから、母はぽつりぽつりと父のことを口にするようになった。

 野球のユニホームが美緒の産着になった。もう一度、それを着たかったに違いない父は3度目に召集された1944年12月、生後5カ月の幼子を残し、輸送船とともに台湾沖に沈んだ。27年の生涯だった。

 父の名は沢村栄治。

 プロ野球草創期、父が巨人軍のエースだったことを母から聞かされたのは10歳の時。映画館では当時、池部良が沢村を演じた「不滅の熱球」が上映されていた。

 他人から知らされるよりは、と母が考えたのだろうか。暮らし向きがよかった母の実家にいて、父に思いを巡らすことはほとんどなかった。

   ■  ■

 大学入試で上京し、ただ驚いた。

 成城大学での面接。履歴書の「亡父」を見た男性教授が身を乗り出した。京都商(現京都学園)を中退し、全日本チームに入った17歳の父がベーブ・ルースらから9三振を奪った34年の日米野球。「静岡で試合を見たんだ。すごかった」。志望理由も聞かれず、面接は終了。間もなく合格通知が届いた。

 東京で暮らした36年間、似た話を何度も聞かされた。就職した広告会社の社長からも、とっつきにくい取引先からも。「沢村投手の娘だって?」と、営業の席で話がつながる。父が後ろで守ってくれている、と思い始めた。

 97年のある日、都内のイベント会場でスタッフからタレントの青空うれし(73)を紹介された。青空はその場で、知り合いだった山口千万石(せんまんごく)に携帯電話をかけ、美緒に渡した。父の故郷、三重県宇治山田市(現伊勢市)の尋常高等小、そして、京都商でバッテリーを組んだ捕手。青空は「栄ちゃんの娘に会いたい」と、山口から幾度となく聞かされていた。

 美緒は約束した。「父の墓参りで会いましょう」。その年の暮れ、近鉄宇治山田駅で待ち合わせた山口は墓まで徒歩10分の道中、よくしゃべった。日々の猛練習や春夏3度の甲子園出場。「栄ちゃんの球が速くて……」。突き指で曲がったままになった両手の指をうれしそうにかざした。

   ■  ■

 5年前、京都学園の同窓会長が訪ねてきた。創立80周年の記念に父のブロンズ像を建てるから来てほしい。山口からの依頼だった。

 秋の京都。式典前日にゆかりの人が集まったホテルのロビーで、前から近づいてきた男性に突然、抱きしめられた。外野手として父の雄姿を目に焼き付けた金子澄雄。「ひと目で沢さんの娘とわかったよ」。涙声になっていた。

 雨の除幕式には、チームメートの遺族ら450人が参列。左足を顔の高さまで上げる独特のフォームをした像が眼前に現れた。こんなに大勢の仲間に慕われる父とは。そう考えるうちに目が潤んできた。

 翌年の若葉の季節に、美緒は母を初めて父の像と引き合わせた。母は京都商時代の父を知らない。21歳で結婚した時、24歳の沢村は戦地で手榴(しゅりゅう)弾を投げすぎて肩を壊していた。復員後は巨人を解雇され、飛行機工場で働く失意の姿を見てきた。

 5分ほどの滞在。じっと像を見つめていた母と去り際に話した。「生き生きしていた一番いい場所に建ててもらったね」

 山口は除幕式の直前に死去。金子も帰らぬ人となった。父の像を見て以来、美緒は京都学園野球部にミカンジュースの差し入れを続ける。「父ならそうしたはず」。甲子園に出たら、応援に行くと決めている。

 その舞台にはきっと、輝いた父が見えるはずだ。=敬称略

      ◇

 甲子園に夢をぶつける少年たちの道を、ともに歩みたいと考える女性たちがいる。何が彼女らを駆り立てるのか。8月に開幕する第90回全国高校野球選手権記念大会を前に、「聖地」を見つめる視線に迫った。

      ◇

 第90回全国高校野球選手権記念大会に向けて、「私の甲子園」と題した手記を募集しています。大会での体験や思い出などを千字以内にまとめ、住所、氏名、年齢、電話番号を明記して、5月末日までに封書(〒530・8211/住所不要)、またはファクス(06・6443・4433)、メール(o-syakai2@asahi.com)で、朝日新聞大阪本社・社会グループ「高校野球取材班」までお寄せ下さい。

このページのトップに戻る