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さらば広島市民球場 思い出さまざま、28日最終公式戦(1/2ページ)

2008年9月27日

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写真自ら建設に携わったネット裏の観客席で当時の思い出を話す西広一明さん=広島市中区、青山芳久撮影写真照明が初点灯された広島市民球場=1957年7月12日

 プロ野球・広島カープの本拠、広島市民球場(広島市中区)がまもなく半世紀の歴史に幕を下ろす。原爆投下の傷跡が残る爆心地近くに誕生し、復興の証しとして市民を熱狂させてきたスタジアムは28日、カープの今季リーグ地元最終戦を迎える。

 カープは現在、リーグ同率3位。日本シリーズ出場権を争うクライマックスシリーズ進出がかかり、最終戦の入場券は20日前に完売した。

 だが、かつては弱かった。49年の創設当初から資金難で、Bクラスが続いた。「お荷物」と陰口をたたかれたが、市民からは愛された。当時の本拠、広島総合球場には照明がなく、「ナイターができる球場を」との声が高まり、56年に広島銀行や東洋工業(現マツダ)など地元企業10社が資金集めを申し出て球場建設は一気に具体化した。

 広島銀行員だった田辺良平さん(73)=広島市東区=は当時、球場への出資を募って取引先を回った。断る企業はほとんどなかった。

 小学5年の時、爆心地から約3.5キロで被爆。市中心部の家は焼失し、父は亡くなった。戦後、自分も周囲も生きることに必死だったが、カープの話になるとみんな目の色が変わった。「平和だからこそ野球ができる。まさに復興のシンボルだった」

 建設地は原爆ドームのすぐ北側の国有地に決まった。

 「明日から市民球場の工事やるんよ」。57年2月、建設会社員だった西広一明さん(74)=同市南区=は上司に突然告げられた。工期はわずか150日間。試合日程が決まっており、遅れは許されなかった。

 食事の合間も惜しみ、被爆者たちがかつて水を求めて飛び込んだ太田川から砂利を運び込んで敷き詰めた。作業員の家族や親類、通りがかりの市民も手伝った。

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