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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>関西>関西の住まい>ぷらっと沿線紀行> 記事 歩み111年 奇跡の経営 近江鉄道ぷらっと沿線紀行(13) 硬派の討論番組「朝まで生テレビ!」などで活躍するジャーナリスト、田原総一朗さん(73)は琵琶湖の東北部、滋賀県彦根市で高校まで暮らした。
20代のころ、夜行列車で東京から帰省すると、米原から近江鉄道に乗り換えた。「僕にとって東京は戦場。車内で交わされる近江弁の会話で郷里へ帰ったんだと実感し、再び東京へ戻るエネルギーをもらった」 6月の週末、彦根駅から貴生川(きぶかわ)駅行きの電車に乗った。併設された車両基地では、国宝・彦根城築城400年祭に協賛して80年前に製造されたED14形電気機関車などが公開され、親子連れらでにぎわっていた。 彦根口駅を過ぎると線路は東にカーブし、見渡す限りの田んぼの中に分け入っていく。 20分ほどで「近江商人発祥の地」として知られる東近江市の五個荘へ。成功して東京や大阪に店を構えても、本宅は発祥の地に置いたまま全国に号令することが多かったという。線路は、水口や日野など近江商人たちが輩出した地を結んでいく。 総延長59.5キロのローカル鉄道は、1896(明治29)年の創業以来111年間、どこにも合併されることなく、当時の社名のままで今日を迎えた。鉄道史学会会長の小川功・滋賀大教授は「奇跡に近い」と話す。 本社を訪ねると、「辛苦是経営(しんくこれけいえい)」という、鉄道会社に似つかわしくない石碑が立っていた。 ■前方よし 商人魂で道開く 昨年初め、近江鉄道本社の書庫から、1901(明治34)年4月1日付の「近江鐵道株式會社株主名簿」が見つかった。750株をもつ筆頭株主は井伊直憲。桜田門外の変で暗殺された大老井伊直弼(なおすけ)の次男で、井伊家16代当主だった。 旧彦根藩士が中心になって創業された近江鉄道は、高騰する用地買収費で資金難に陥り、彦根―愛知川間が開通する前の1898年1月に当初の経営陣が総退陣する。代わって経営を担ったのが、沿線に居を構えていた近江商人たちだった。 ◇ その中心人物の一人が、東京、大阪、京都に店を構えた呉服問屋「丁吟(ちょうぎん)」(現「チョーギン」=本社・東京)の当主・4代目小林吟右衛門だった。 小林は本業を東京にいた弟に任せ、銀行からの借金の連帯保証人になって経営に打ち込む。 滋賀県東近江市の小林邸に設立された近江商人郷土館の館長を務める末永国紀・同志社大教授は「松方デフレと呼ばれる厳しい不況で本業は行き詰まっていた。新たな事業分野に乗り出さなければ、という危機感があったのだろう」と分析する。 小林は近江鉄道が銀行借金を完済し、連帯保証の重圧から逃れた直後の1905年に死去した。旧彦根藩士としてただ一人、役員に残っていた西村捨三も同年、資金難の苦しさを表した「辛苦是経営」という石碑を残して辞職した。 沿線人口が少なく、経営の厳しさは、電力会社の傘下を経て1943年に沿線出身の堤康次郎率いる西武グループに入っても変わらなかった。戦後、収入を支えた貨物輸送も、国鉄彦根駅の貨物取り扱いの中止に伴い88年に撤退せざるを得なかった。 ◇ 逆境のなか、近江鉄道は、近江商人のモットーでもある「倹約」を徹底する。現在保有する60両はすべて中古。旧国鉄のほか、西武鉄道系のグループ会社から譲り受け、彦根駅構内の車両工場でワンマン運転用に改造した。 最盛期の1950年前後には鉄道部保安課電車区は85人の職員を擁し、木造のモハ1系や500系を半鋼製や全鋼製に改造するなど全面的な作り替えも手がけてきた。鉄道部次長の伊藤忠司さん(59)は「新品の車両を買えば数億円かかるが、改造すれば数分の一で済む。職員の技術力も磨かれた」と話す。 本社も73年に土地区画整理事業のため仮移転した築59年の元中学校の木造校舎を、一部補強工事をしただけで使い続ける。 一方で、速度超過を監視することができる自動列車停止装置(ATS)の導入を進め、JR宝塚線の脱線事故後にはカーブなど14カ所に追加整備した。「一度でも事故を起こしたら会社がつぶれるから、安全面だけは節約できません」と鉄道部長の高木久次さん(58)。 ドル箱路線もない、地方の私鉄が1世紀を超えて生き残った「奇跡」は、近江商人の知恵が経営に生き続けているから起きたのではないか――。そう思えた。 鉄ちゃんの聞きかじり<幻の飛行場線> 近江鉄道八日市線(近江八幡―八日市)は、1944年に八日市鉄道(旧・湖南鉄道)を買収したものだ。この八日市鉄道にはかつて、新八日市駅と近くにあった飛行場を結ぶ路線があった。 飛行場は1915年に国内初の本格的な民間飛行場として旧八日市市(現東近江市)南部地区に造られたが、5年後には陸軍の飛行場になった。八日市鉄道の新八日市―飛行場間は1930年に開業。戦時中は飛行場へ兵員・資材を輸送する役割を担い、特攻隊員も運んだという。その後、「飛行場」の駅名は攻撃の標的になるとして「御園」に改められた。 終戦後、この飛行場は廃止され、新八日市―御園間も1948年に休止され、15年後の1963年に正式に廃止された。現在は「民間飛行場発祥の地」という記念碑が立っているだけで、当時の様子をとどめるものはほとんどない。 探索コース 小林吟右衛門の邸宅は「近江商人郷土館」となっている。千両箱などの商売道具や家財道具も展示され、当時の生活を知ることができる。近江鉄道八日市駅からタクシーで6分。五箇荘駅近くの近江商人の四つの邸宅は「近江商人屋敷」として公開されており、近江商人博物館とともに回れる5館共通入館券(大人800円、子ども360円)もある。 この記事の関連情報 |