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なんだ坂、こんな坂 JR山陽線 瀬野八

ぷらっと沿線紀行(28)

 貨物列車が広島市安芸区のJR瀬野駅を過ぎると、最後尾に連結された「もみじ色」の電気機関車EF67は、重低音のうなりを上げて後押しを始めた。千メートル進むと22.6メートルの高度差が生じる急坂と、半径300メートルの急カーブが11カ所も続く10.6キロの難所「瀬野八(せのはち)」の始まりだ。

写真最後尾に連結され、急坂を上る貨物列車を後押しする補助電気機関車=広島県東広島市で
写真貨物コンテナに視界を遮られた補助電気機関車の運転席。運転レバーに朝日が反射した
写真JR瀬野駅と北側に広がる住宅街を結ぶスカイレール=広島市安芸区で
写真JR瀬野駅前に立つ旧瀬野機関区の記念碑=広島市安芸区で
写真後押しを受けて峠越えに挑む特急かもめ=1959年4月、山陽線瀬野―八本松間で、瀬野機関区OBの大谷和巳さん提供
写真電気機関車最強のEF200形(上)と国内の蒸気機関車としては最大パワーを誇ったD52形機関車(下)=いずれも広島市東区のJR貨物広島車両所で
地図  

 先頭の機関車からの無線指示を受け、運転士の福田義典さん(24)は右手でレバーを一段、また一段と刻んで出力を高めていく。コンテナ車を中心にした24両編成、約500メートルの車列は、赤や黄に色づき始めた瀬野川沿いの山並みの間を上る。

 14分後、東広島市の八本松駅の手前で役目を終えると、福田さんの表情が和らいだ。「雨や雪、列車の重量が重い日は車輪の空転が心配で緊張します」

 神戸に本社を置く山陽鉄道が広島まで鉄路を延ばしたのは1894(明治27)年。その2年前の8月、現在の広島市北部を迂回(うかい)する案と、「瀬野八」を通る「直行線案」を検討した同社の株主相談会の様子を伝える記事が芸備日日新聞に載った。

 「迂回線は十哩(マイル)計(ばか)りも線路延び、工費五十五万円も多きを要するのみならず、乗客貨物に時間を余分に徒費せしむるの懸念もあり……」。会社側は傾斜がきつくても「直行線」を「利あるべき」と説明し、「株主も異議を唱へざりし」。

 この決定が、山間の集落に「鉄道の村」を生みだした。

■つわものどもの伝説

 JR瀬野駅の北側に、駅の規模に不釣り合いな広い駐車場が広がる。その一角に立つ石碑には「西の函嶺(はこね)と呼ばれた急勾配(こうばい)区間で、一貫して後押し専用の機関区として活躍」と刻まれている。列車の「山登り」を支えた、旧瀬野機関区の跡地だ。

 山陽線の広島開通とともに後押し機関車の「駐泊所」として発足。1906年に山陽線が国有化され、東海道線とともに人と貨物の大動脈として発展を続けた。

 地区の子弟はこぞって旧国鉄を目指した。44年に地元の瀬野国民学校(現、瀬野小学校)高等科を卒業後、国鉄に入った大谷和巳さん(77)=広島市安芸区=は「当時30人ぐらいいた同級生の男の子の約半分が国鉄に就職した」と振り返る。

 戦争中に廃止され、53年に京都―博多間で復活した特急「かもめ」を引いたのは、国鉄を代表する蒸気機関車C62(通称シロクニ)。87年に退職するまで国鉄マンとしての大半を瀬野機関区で過ごした宮原和明さん(78)=同区=は「かもめ」の後押し機関車に乗務した。「かもめの乗務員は『特急組』と呼ばれ、誇らしかった」と懐かしむ。

    ◇

 このころ、瀬野機関区は全盛を迎える。石碑の文字を揮毫(きごう)し、助役や機関区長を歴任した新見二朗さん(101)=同区=は「1時間では一巡できなかった」という。約200人の職員が在籍し、約1万5千平方メートルの広い敷地に、車庫や機関車に石炭を積むクレーンなどのほか、食堂、理髪店、独身寮から手作りの日本庭園まであった。当時の瀬野は「一家に一人は国鉄に勤めていた」といわれ、「鉄道村」と呼ばれた。

 61年に国鉄に入った新見さんの次男の詔二さん(65)は、蒸気機関車最後の時代を経験している。「貨物列車は重連(2両)で押すこともあった。2両目の補機に機関助士として乗務したときは、トンネルに入ると3両分のばい煙と蒸気で暑く、たまらなかった」と振り返る。スピードはわずか20キロほどしか出ず、車輪の空転も頻発したという。

 62年の電化後、蒸気機関車は電気機関車に交代した。75年に山陽新幹線が博多まで開業すると、特急、急行の多くが姿を消し、87年に機関区も廃止された。貨物列車の後押し機関車はいま、JR広島駅近くの広島貨物ターミナルで連結され、西条駅で切り離されている。

    ◇

 現在の瀬野駅に立っても、かつての機関区の鉄道マンたちの苦闘を想像することは難しい。瀬野駅の北側には、9年前に開業した、ロープウエーとモノレールを組み合わせた新交通システム「スカイレール」の駅がある。北側の丘陵に開発された住宅団地「みどり坂」への足だ。

 11月半ばの夕刻、スカイレールに乗った。無人運転の25人乗りのゴンドラは、「瀬野八」の十数倍もの急坂を時速18キロで静かに上っていく。

 瀬野駅では、1日15本もの上り電車が折り返す。その多くは大阪などの大都市圏から移ってきた通勤電車で、「瀬野八」を上れないためだ。難所の記憶は、ダイヤの上に残されている。

鉄っちゃんの聞きかじり<貨物運ぶスペシャリスト>

 山陽線の貨物列車を先頭で引っ張る機関車は、蒸気時代は最強のD52形、電化後もバブル期に作られたハイパワーのEF200形やブルートレインを引いたEF66形などつわものぞろい。

 今年3月、山陽線を走る貨物列車の制限重量は100トン引き上げられ、1300トンになった。変電所の増強工事が完成し、前後に電車がいると電圧が下がり、出力低下を余儀なくされていた機関車が本来の力を発揮できるようになった。

 だが、先頭にいくらパワーがあっても、後押しを受けずに「瀬野八」区間を安全に上れるのは、500〜600トンが限度という。「万一急坂の途中で止まってしまったら、力がありすぎても車輪が空転して動けなくなる」とJR貨物広島機関区の志水仁区長(39)。EF67形は後押し専用の補助機関車として、広島車両所だけに8両が配備されている。

探索コース

 JR瀬野駅から北東に約4キロの瀬野川公園には、かつて瀬野機関区に所属していたのと同型のD51形蒸気機関車が展示されている。瀬野川沿いをJR山陽線と国道2号が並行する「大山峠」は、旧山陽道(西国街道)でも難所として知られた。芸州藩の役人も馬から下りざるを得なかったと伝えられる「代官おろし坂」などの史跡が山中に残る。

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