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若者は、川を越えて 北近畿タンゴ鉄道 宮津線

ぷらっと沿線紀行(37)

 京都府北部、JR西舞鶴駅から分かれた第三セクター北近畿タンゴ鉄道宮津線を西へ向かう列車は、由良川橋梁(ゆらがわきょうりょう)に差しかかった。全長約550メートル。橋脚を橋げたでつないだ鉄橋は低く、両側の視界を遮るものがない。水面を走るような感覚だ。

写真冬の朝もやが残る由良川を、「タンゴ・ディスカバリー」が駆け抜けた
写真世界遺産登録を目指す天橋立のたもとに、1両編成の気動車が入ってきた=いずれも京都府宮津市で
写真ヨットをイメージした網野駅の駅舎。船室のような円窓が並んでいる
写真「丹後七姫」のレリーフの脇を駆け抜ける「タンゴ・エクスプローラー」=いずれも京都府京丹後市で
写真昭和40年代、煙を上げて走る加悦鉄道の4号型蒸気機関車=加悦鉄道保存会提供
地図  

 プロ野球・楽天監督の野村克也さん(72)は、毎年、シーズンを終えた後の12月、京都発の特急「タンゴ・ディスカバリー」に乗ってこの鉄橋を渡る。故郷の京丹後市網野町へ、母の命日に墓参りをするためだ。

 1935(昭和10)年生まれ。高校卒業までの約18年間、旧国鉄網野駅近くで育った。

 3歳で父が戦死し、母が支える家は貧しかった。「夢がプロ野球選手だったから、何としても高校に行きたかったけど、母親は、がんとしてだめだという。お金がないって」

 だが、3歳上の兄が大学進学をあきらめて就職し、仕送りをしてくれた。地元にも高校があったが、「汽車に乗りたくて」隣駅の府立峰山高校を選んだ。「定期券で改札をすーっと通れるのがうれしくてね」

 南海の入団テストを受けに大阪へ行く前、野球部の部長から聞かれた。「お前汽車賃どうするんだ」。「ありません」。「じゃあ、これを使え」とお金を持たせてくれた。

 「いつか金持ちになってやる」。名監督が名もない若者時代を過ごした地を目指した。

■「再生魂」育んだ 情の風土

 海上に松林が延びる日本三景の一つ、天橋立(あまのはしだて)を過ぎると、線路は丹後半島の付け根に入り込む。岩滝口駅から網野駅あたりにかけて、田んぼと瓦屋根の民家が広がる沿線が、絹織物の丹後ちりめんの産地だ。

 縦糸によりのない生糸、横糸に強いよりをかけた生糸を使って交互に織り込むことで生地に「しぼ」と呼ばれる細かな縮みしわを出した丹後ちりめんは、和服の素材として広く使われた。江戸時代に京都・西陣から技法を伝えられ、優れた品質で天下第一の産地として興隆する。

 明治時代から続く老舗(しにせ)問屋を営む市田昭一郎さん(76)は「機屋(はたや)にとって、鉄道はなくてはならん存在やった」と話す。

 列車は原料の生糸、製品のちりめんの輸送を担った。急ぎの出荷では「担ぎ屋さん」と呼ばれる男女がちりめん数十反を詰めた大風呂敷を背負って京都へ向かった。

 最盛期の73年には、1反13メートルの生地で約920万反を数えた。和服を着る習慣が廃れ、安いアジア製品にも押され、織物産業は衰退。07年は約71万反に激減した。

 宮津線もちりめん産業と歩調を合わせるように衰退する。輸送人員は65年度の約800万人が、85年度には約300万人に減少。86年に国鉄の廃止対象路線となる。

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 「大阪や神戸とつながらない陸の孤島になってしまう」。宮津市議会議長の小田彰彦さん(64)は当時、危機感を募らせた。存続運動が実り、90年から京都府や沿線自治体が出資する第三セクターの北近畿タンゴ鉄道(KTR)に引き継がれた。だが、乗客は右肩下がり。毎年約5億円の赤字を出す苦闘が続く。

 野田川駅から丹後大宮駅に向かう途中、線路ののり面に、地元に語り継がれる伝説や歴史に名を残す7人の女性たちが描かれたレリーフが並ぶ。浦島伝説の乙姫、山椒大夫の安寿姫、三十六歌仙の一人小野小町、明智光秀の娘・細川ガラシャ、源義経が愛した静御前、聖徳太子の母間人(はしうど)皇后、羽衣天女。地元で「丹後七姫」と呼んで観光資源にしている。

 「沿線から少し足を延ばすと、面白い話がたくさん聞けます」。沿線に住む郷土史研究家の梅本政幸さん(84)が教えてくれた。丹後は「丹後七姫」だけでなく、数々の民話が残る「宝庫」なのだそうだ。

   ◇

 落語家の桂福団治さん(67)は、7、8年前から、丹後の民話を落語会の中で紹介している。その一つに、天橋立近くの成相寺(なりあいじ)に17世紀から伝わる「つかずの鐘」がある。「寺の鐘を鋳造する時に犠牲になった子供の声が聞こえるため、その鐘をつかなくなった」という悲話だ。寺では今も鐘をつかないという。

 桂さんの目には、この沿線は山、海、川、田んぼ、集落と日本の原風景が残っている、と映る。「見るだけではなく、人情あふれる昔話を聞くと、そこにすむ人々と自分を隔てる『お掘り』がなくなるんです」

 他球団を「クビ」になった選手を引き取り、再生してきた野村監督。その手腕の背景には、情にあふれた風土の力があるのかもしれない。

鉄っちゃんの聞きかじり<ちりめん 栄光の時代>

 野田川駅のホームから、線路沿いを通るサイクリングロードが見える。かつて、宮津線に接続していた加悦(かや)鉄道の廃線跡地だ。

 同鉄道は1925(大正14)年、ちりめんの輸送手段として、加悦町(現与謝野町)のちりめん業者らが30万円を出資して設立した。区間は丹後山田(現野田川)駅から南下し、加悦駅までの全長5.7キロ。昭和に入り発見されたニッケル鉱石の輸送も担い、1940年に大江山鉱山駅まで2.8キロが延伸された。戦後は自動車の発展で衰え、85年に60年の歴史を閉じた。

 鉱山駅跡地前にある「SL広場」には、加悦鉄道が使った蒸気機関車など27両が展示されている。入場料は中学生以上500円、小学生300円、未就学児は無料。1873年に英国で製造された123号機関車は、05年に蒸気機関車では2番目に国の重要文化財に指定された。

探索コース

 野田川駅からタクシーで約15分で、丹後ちりめんの隆盛期の町並みを今に伝える「ちりめん街道」に着く。05年に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された旧街道沿いに、工場、銀行、病院、役場、民家などが立ち並ぶ。案内所となっている旧尾藤家住宅は、江戸時代末期に建設され、昭和初期までに増改築されたちりめんの商家で、内部を見学できる。

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