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ここから本文エリア 現在位置:asahi.com>関西>関西の住まい>ぷらっと沿線紀行> 記事 城之崎にて。その後 JR山陰線 城崎温泉駅ぷらっと沿線紀行(40) 新大阪発の特急「北近畿11号」が、満員の乗客を乗せてホームに到着した。兵庫県北部、豊岡市のJR山陰線城崎温泉駅。「来るのは必ずこの時期。カニを食べて地酒を飲むために必ず列車で来ます」と大阪市の自営業田原弘泰さん(42)。
温泉街に入ると、大谿(おおたに)川の川岸450メートルに柳並木。両岸はアーチ型の橋で結ばれ、3階建ての旅館が立ち並ぶ。はんてんを羽織った浴衣姿の客が、カラ、コロとげたを鳴らしながら七つの外湯をめぐって歩いている。 小説家の志賀直哉は1913(大正2)年10月、城崎駅に降りた。東京・芝浦で素人相撲を見物した帰り、線路端を歩いていて山手線の電車にはねられて大けがをし、養生に来たのだ。 「『一の湯』の前から小川は往来の真中をゆるやかに流れ、円山川へ入る。或所(あるところ)迄(まで)来ると橋だの岸だのに人が立って何か川の中の物を見ながら騒いでゐた。それは大(おおき)な鼠(ねずみ)を川へ投げ込んだのを見てゐるのだ」 当時の体験をもとに書かれた短編小説「城の崎にて」の主人公は、ハチ、ネズミ、イモリの生と死に触れ、生きていることと死ぬことに「それ程に差はない」という心境に至る。 作品には、印象的な柳並木も、アーチ型の橋も出てこない。郷土史に詳しい四角澄朗(しかく・すみろう)さん(62)は「直哉が見た城崎と今の城崎は、似て非なる別の街なのです」と言った。 ■復興の湯、こんこんと 「水平動を交えた激烈な上下動のため多くの家屋が倒潰(とうかい)し、忽(たちま)ち数箇所(かしょ)から火災が発生して燃拡(もえひろ)がり、但馬地方未曽有の大災害となった。(中略)家の下敷(したじき)になったまま焼死する者、逃げた山林に延焼してそこで焼死する者など多く、さながら生き地獄の様相」(「城崎町史」) 1925(大正14)年5月23日午前11時10分。但馬地方をマグニチュード7の北但(ほくたん)大震災が襲った。城崎駅の初代駅舎は全壊し、旧城崎町では9割の建物が焼失、倒壊。人口の8%の272人が亡くなった。豊岡市教委の松井敬代さんは「今の城崎温泉は、神戸と同じ災害復興都市なのです」と話す。 ◇ 震災前の城崎の街は、江戸時代からほとんど変わっていなかった。当時の写真を見ると、大谿(おおたに)川沿いに宿が肩を寄せ合うところは同じだが、直哉が「小川」と書いたように川幅は狭く、架かるのは木の橋。両岸に柳並木もない。 灰の中、外湯からはこんこんと湯がわき続けていた。旅館「西村屋」当主で町長だった故西村佐兵衛は「此(こ)の湯の湧(わ)き出るかぎり城崎町は発展する」と失意の町民を励ます。 佐兵衛は外湯を中心にした大正ロマンあふれる温泉街の再興を目指した。旅館主には「バラックは建てるな」と説き、知事や国会議員と、政府に復旧資金融通の陳情に赴く。佐兵衛の支持者の手記によると「身を投げ出して声涙(せいるい)共に下る西村君の嘆願はよく大官を動かした」という。 政府から借用できた復興資金は計125万1185円(現在の約30億円)。木造3階建ての旅館の再建は急ピッチで進み、2軒しか残らなかった旅館は一月ごとに数を増した。 震災2年後の7月、大阪から7時間かけて訪れた島崎藤村は紀行文「山陰土産」に「そこにもここにも高く足場がかかって、木を削るかんなの音が聞こえてくる」と書いた。 大谿川の川幅は広げられ、大水に備えてアーチ型のコンクリート橋に架け替えられた。外湯の建物がすべて再建され、復興事業が完了した1932(昭和7)年、初めて柳が植樹された。発案者ははっきりしないが、倉敷川べりに柳の葉がそよぐ岡山県倉敷市の美観地区を参考にしたといわれる。今に続く情緒ある温泉街のたたずまいが生まれた。 大阪在住の作詞家、もず唱平さん(69)は02年秋、演歌「城崎情話」の作詞のために城崎を訪れ、ファンになった。「城崎には日本の温泉地の原風景がまだ残っている。いつまでも守り伝えてほしい」 ◇ 05年3月、震災翌年に完成した2代目城崎駅の駅名が、城崎温泉駅に改められた。主導したのは佐兵衛の孫で、当時城崎町長の職にあった西村肇さん(62)。豊岡市など周辺1市4町との合併が決まり、町の20倍以上の面積の豊岡市の一部として埋没することを心配した。「これからは城崎温泉の住民として生きていくという決意を、内外に発信する意味もあった」と振り返る。 駅は多くの観光客でにぎわっていた。80年余り前の震災を乗り越えた人々の志と、たくましさを思った。 鉄っちゃんの聞きかじり<「虫食い電化」路線> 京都と幡生(はたぶ)(山口)を結ぶ全長673.8キロの山陰線は、電化区間と非電化区間が入り交じる「虫食い電化」路線だ。電化区間は京都―城崎温泉間と伯耆大山(ほうきだいせん)(鳥取)―西出雲(いずも)(島根)間で、全線の3分の1程度。城崎温泉駅に向かう京都・新大阪・大阪発の特急は15本あるが(2月)、11本は電車のため同駅で折り返す。 初の電化は82年の伯耆大山―知井宮(現・西出雲)間。伯耆大山と倉敷を結ぶ伯備線の電化に合わせ、岡山―出雲市間に電車特急を走らせるためだった。86年、福知山(京都)―城崎間が電化された。これも福知山線の宝塚(兵庫)―福知山間の電化とセットだった。10年後に山陰線京都―福知山間の電化が完成した。 豊岡市など沿線の自治体は、城崎温泉以西の電化をJR西日本に申し入れているが、採算性の問題から実現のめどは立っていない。 探索コース 城崎の温泉街には、この地を訪れた作家や歌人の文学碑が24ある。城崎温泉駅には島崎藤村の紀行文「山陰土産」の碑。「城の崎にて 直哉」の碑は駅から徒歩10分の城崎文芸館前。文学碑嫌いの志賀直哉が「直哉」と自ら揮毫(きごう)した唯一の碑という。同館には城崎ゆかりの文学者の資料がそろう。駅に隣接する「さとの湯」では無料の足湯で散策の疲れをいやせる。 この記事の関連情報ぷらっと沿線紀行
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