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時の扉開け 徒然の旅 阪堺電気軌道上町線

ぷらっと沿線紀行(42)

 車やバスがひっきりなしに行き交うあべの筋のど真ん中。緑のテントがかけられた停留場に、路面電車が滑り込む。阪堺(はんかい)電気軌道上町線の起点・天王寺駅前。電車は折り返し住吉公園、我孫子(あびこ)道行きになって発車する。その間わずか数分だ。

写真昔ながらの商店街が続く「帝塚山四丁目」停留場前。万国旗が朝日を浴びてはためいていた=大阪市住吉区で
写真雨の天王寺駅前からは次々と電車が出発していった
写真気分は運転士。真剣なまなざしで前方を見つめる少年の姿がよく見かけられた
写真若くして散った南朝の北畠顕家のものと伝えられる墓前には花が絶えない=いずれも大阪市阿倍野区で
写真「北海道開拓の村」で4月〜11月に営業する馬車鉄道=札幌市厚別区厚別町で(同村提供)
地図  

 阿倍野署を過ぎると線路は右にカーブし、あべの筋を離れて民家の間の専用軌道へ。ここから昭和の雰囲気を残した沿線風景が続く。最初の停留場が松虫。美しい名の由来は、250メートルほど南西にある松虫塚だ。

 室町時代の謡曲『松虫』は、松虫駅近くの松虫塚に伝わる伝説をもとにしている。

 2人の男が月の夜に阿倍野の松原を散歩するうち、1人が松虫の声に聞きほれ、草むらに分け入った。いつまでたっても帰らないので捜しに行くと、友は草に伏して死んでいた。死んだ友をこの塚に葬った――。松虫はいまの鈴虫のことだという。

 次は東天下茶屋。近くに小説や映画で人気を博した平安時代の陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)の生誕地とされる安倍晴明神社。「安倍晴明伝」は講談師の旭堂南陵(きょくどう・なんりょう)さん(58)の代表的な持ちネタだ。

 「呪術合戦で超人的な能力を見せる晴明の活劇と悪役の蘆屋道満(あしや・どうまん)を懲らしめる勧善懲悪。京に上って活躍したのが大阪の人間にはたまらないところ」

 歴史の事跡が堆積(たいせき)している沿線に、南朝の貴公子と随筆の名手を結ぶ伝承が残されていた。

■貴公子はその時、海を見た

 2月22日早朝。阪堺電気軌道上町線の北畠停留場から歩いて5分ほどの北畠公園の「伝北畠顕家(あきいえ)の墓」の前で、阿部野神社宮司の中塚昌宏さん(64)が祝詞(のりと)の奏上を始めた。

 「遺(のこ)し給(たま)える高き尊き御(み)功績(いさおし)を仰ぎまつり偲(しの)びまつり…」

 14世紀、後醍醐天皇の建武新政が足利尊氏の離反で崩壊した後、半世紀余り続いた南北朝内乱の時代。顕家は16歳で陸奥守(むつのかみ)となり、奥州軍を率いて一度は尊氏を九州に敗走させたが、1338年5月22日、和泉石津の戦に敗れ、21歳で戦死した。

 阿部野神社は顕家と「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」で知られる父親の親房(ちかふさ)が祭神。月命日にあたる毎月22日に神社と墓前で「月次祭(つきなみさい)」を催している。

 北方謙三さんの小説「破軍(はぐん)の星」は、名門の公家ながら戦乱に生きた「猛(たけ)き貴公子」が8万の足利軍に突入する最期をこう結ぶ。「顕家はもう、敵の軍勢を見てはいなかった。軍勢の後方に拡(ひろ)がり、朝の陽(ひ)を照り返して輝く、海だけを見ていた」

 中塚さんは「顕家公が最後の出陣の前に後醍醐帝に上奏した文には、軍事的な提案のほか戦で疲弊した民の租税の減免、酒宴などの出費を慎重にすることなどが盛り込まれている。私利を追わず、国難に一身を投じた立派なお方です」と話す。

    ◇

 松虫停留場から500メートル余り西の海照山正圓寺(しょうえんじ)。クスノキの老木が茂る境内に通じる参道の西側に「兼好法師藁打石(わらうちいし)」の石碑が立つ。

 伝承によれば、随筆「徒然草(つれづれぐさ)」を執筆した吉田兼好は晩年、阿倍野に隠れ住んだ。「大聖歓喜天」の碑の台石になっているのが、兼好がわらじやむしろを作るためにわらを打った石なのだという。

 19世紀中ごろに書かれた『摂津名所図会大成』の「兼好法師旧栖(きゅうせい)(古いすみか)」の項は兼好が吉野の南帝(後醍醐天皇)の密命を、奥州の北畠顕家に届けた、と指摘。出陣を促した人の死を「弔(とぶら)ひ奉らんとて」顕家最期の地の阿倍野に庵(いおり)を結んだ、と述べている。1956年発行の「阿倍野区史」は「その間徒然草を草(そう)した(書いた)」と記す。

 歴史に残る名随筆が阿倍野で書かれ、顕家と兼好の接点があったというのは本当なのか。

 「徒然草」研究の第一人者、城西国際大学教授の三木紀人さん(72)は「全国あちこちに兼好法師ゆかりの地はあります。それぞれ色々と主張するのはいいのですが、『徒然草』の執筆地も含め、本当のことはタイムマシンで彼の時代に行かないと分からないでしょう」と話す。

    ◇

 正圓寺を出て松虫通を東に歩くと、松虫塚に行き当たる。石柱に囲まれた塚は、歩道に大きくはみ出している。1970年代半ばに大阪市が道路整備をしたとき、塚は碑の一部を残して撤去される計画だった。

 「由緒ある塚をわれわれの時代に消えさせてはならない、と頑張りました」と阿倍野区名所旧跡顕彰会会長の猿田博さん(89)。80年、今の姿に設計が変更された。

 チンチン電車を抱きかかえるように残る懐かしい町並みは、古い歴史をいとおしむ人々が支えている。

鉄っちゃんの聞きかじり<前身は馬車鉄道>

 阪堺電気軌道上町線の前身は1900(明治33)年に営業を開始した大阪馬車鉄道。馬1頭が定員14人の客車を引っ張り、開業当初は1日に500人余りを運んだという。だが、馬の飼料費、糞尿(ふんにょう)の処理費などが経営を圧迫し、1908年に馬車鉄道の営業をやめ、社名を変更して電化工事に着手。南海鉄道に合併された後の1910年に電化された。

 日本の馬車鉄道は、1882(明治15)年に新橋―日本橋間で開業した東京馬車鉄道が最初。その後、全国に登場したが、機関車や電車に置きかえられて次第に姿を消した。最後まで走っていたのは1949(昭和24)年まで存続した宮崎県の銀鏡(しろみ)軌道。

 現在は、4〜11月に運行される札幌市の「北海道開拓の村」の馬車鉄道や、岩手県雫石町の小岩井農場のアトラクション「トロ馬車」で、当時の雰囲気を味わえる。

探索コース

 阿倍野区役所の「散歩マップ」は4種の「歴史の散歩道」を紹介する。北西コースは上町線阿倍野駅から逆時計回りに正圓(しょうえん)寺へ。松虫通を東に進み、詩人伊東静雄文学碑―松虫塚―寺西家阿倍野長屋。南西コースは上町線東天下茶屋駅の馬車鉄道跡の碑―安倍晴明神社―阿倍王子神社―阿部野神社―上町線北畠駅。同区役所区民企画室(06・6622・9743)へ。

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