黒煙と蒸気に包まれて「SLやまぐち号」がゆっくりと津和野駅を出発した
津和野駅を出た「SLやまぐち号」は、赤い石州瓦の町並みを抜け、黒煙を吐きながら急な上り坂を駆け上がる=いずれも島根県津和野町で
1922(大正11)年8月の津和野駅開業直後、同駅近くの山口線を走る蒸気機関車=島根県津和野町教委提供
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山あいに汽笛がこだました。3月22日。優美な姿から「貴婦人」と称される蒸気機関車C571号機が引く「SLやまぐち号」は、山口、島根県境の六つのトンネルを抜け、津和野盆地に入った。下りカーブを曲がるたび、津和野川の青い水と石州瓦の赤い屋根の家々が迫る。
「汽車は用心深くゆっくりと、大きなカーブをえがいて丘をくだっていった」。ヘルマン・ヘッセの「青春はうるわし」(関泰祐訳)の一節だ。画家の安野光雅さん(82)は、ヘッセが南ドイツの郷里カルプに帰る物語を、津和野に帰る若き自分が見た車窓の情景と重ねた。後年訪ねたカルプの街は、驚くほど津和野に似ていたという。
小学校の脇を通る汽車は、安野さんには時計代わりだった。四方を山に囲まれた津和野。「汽車が行く先にどんな世界があるんだろう。そう夢をはぐくんでくれた」。23歳で上京し、詩情豊かな画風を切り開く。
線路と川に挟まれた一角に、森鴎外が生まれた家がある。
「来年は必ず帰る」。山口線の津和野延伸前年の1921(大正10)年6月、鴎外は上京した津和野町長に話した。だが翌年7月、鴎外は世を去る。津和野駅開業の1カ月前だった。
79(昭和54)年8月1日、6年間絶えていたSLの汽笛が響いた。鴎外が立つことがかなわなかった津和野駅は、日本を代表するSLの終着駅になった。
■ずっと守らな、いけんのよ
「ええのう、やっぱり」。3月22日、島根県津和野町の清水誠一さん(82)は、この春初めて客を乗せて津和野駅に着いたC571号機の姿に目を細めた。29年前の8月1日、復活した1番列車の機関士の1人だ。
旧国鉄は1960(昭和35)年、「無煙化」を旗印にした動力近代化計画をスタートさせ、電化とディーゼル化を推し進めた。75年にはすべてのSLが営業運転から引退した。
だが78年1月5日付の朝日新聞朝刊に載った1本の記事が波紋を巻き起こす。「SLをもう一度 国鉄総裁初夢」。故・高木文雄国鉄総裁は「マニアのためや、単なる郷愁ではない。蒸気機関は産業革命の原動力となった人類の偉大な科学遺産。そのシンボルとして動くSLを残す」。全国で誘致運動が起きた。
「SLは文化財だから」。当時国鉄本社の課長だったJR東海相談役の須田寛さん(77)は、社内の会議での総裁の一言を覚えている。「それまで、不効率で煙害もあるSLは厄介者扱い。廃止を惜しむ世論が、価値を再認識させた」
78年12月、山口線が誘致競争を制した。SLの向きを変える転車台が小郡(おごおり)(現・新山口)と津和野に残っていたことが決め手の一つだった。
誰が走らせるか。小郡機関区津和野支区(86年廃止)に白羽の矢が立つ。SL経験者は57人いたが、人選は難航した。熱いカマに石炭をくべて走る運転は重労働。年配者は「今さら無理」。40代以下の中堅も「経験が足りない」と尻込みした。
「やろう」。手を挙げたのは清水さんら50代前半の7人だった。清水さんは16歳から約20年間SLを運転し気動車の運転士に転じたが、「可愛がれば可愛がるほどよく走る」SLに比べ、飽き足りなかった。
1番列車で津和野手前の最後のトンネルを抜けた清水さんは、汽笛弁を強く引いた。「帰ったで。SLが無事に帰ったで。見てくれ」
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快走を続けてきたC57を95年1月17日、阪神大震災が襲う。定期整備中だった神戸市の工場が大破し、車体が台座から外れて大きく傾いた。37年の製造以降、空襲や土砂崩れに遭っても奇跡的に生き延びてきた。「ここまでか」。整備担当の前川拓也さん(51)は一時覚悟した。
だが「貴婦人」は強運だった。ボイラーなど主要部は無事。前川さんらは壊れた工場で修理を続け、4カ月後に山口線に復帰させた。
370万キロを走破したC571号機は老朽化が進む。JR西日本山口鉄道部(山口市)の3人が保守を担う。倉益彰さん(51)は「SLを見た子は自分にも『おいちゃん、ありがとう』と言ってくれる。だからずっと守らな、いけんのよ」。
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22日午後、津和野駅から折り返すC57に松崎卓也さん(29)が乗り込んだ。昨秋、志願して見習い機関助士になった。「先輩たちが受け継いできたSLの技術を早く覚え、今度は自分が若い世代に伝えたい」
C57は発車後すぐ、坂を上り始めた。黒煙が山あいの空に広がり、たなびいていく。力強い走りに、復活を支えた人たちの姿が重なった。
鉄っちゃんの聞きかじり<SL、29年間で180万人>
山口市と島根県益田市を結ぶ山口線は山陰と山陽の縦貫線として明治時代半ばから構想された。1913(大正2)年にまず小郡―山口駅間が開業。次第に北へ延伸されたが、第1次世界大戦に伴う物価高騰やトンネルの多さで工事は難航し、益田まで全通したのは23(大正12)年だった。
山口線は坂が多いため、73年のSL廃止直前はデゴイチの愛称で知られる貨物用のD51が使われていた。Dは小さめの動輪が4軸ある形式で力が強い。大きめの動輪が3軸あり、高速運転が得意な旅客用のC57は山口線を走っていなかった。D511両は現在、津和野駅前で保存されている。
29年間で約180万人がSLやまぐち号に乗った。今年は11月24日まで休日を中心に1往復運転される。予備機でポニーと呼ばれるC56が引く日もある。全席指定で、新山口―津和野間の運賃・料金は1620円。
探索コース
津和野駅前には安野光雅さんが手がけた町立安野光雅美術館がある。徒歩10分の殿町通りが観光の中心。武家屋敷の堀に無数の鯉が泳ぎ、森鴎外が通った旧藩校養老館が残る。殿町から鴎外旧宅へは津和野川沿いに15分。遺言を踏まえて「森林太郎」とだけ刻まれた鴎外の墓がある永明(ようめい)寺、街を見下ろす太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社、津和野城跡など山沿いも見どころが多い。
※写真の色彩監修は、天野多規子が担当しました。