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ぷらっと沿線紀行

はいからさんが通った 阪急千里線

2008年8月30日

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写真阪急千里線の沿線には今も竹林が残る。都心に近いのに、散策すると秋の虫の合唱が聞こえてきた=大阪府吹田市写真英国の住宅地にならって造られた噴水。街のシンボルだ=大阪府吹田市写真千里山駅の周辺。線路の西側(左)に千里山住宅地がある=大阪府吹田市写真千里山遊園にあった飛行塔。つり下げられたゴンドラが上昇すると大阪市内が一望できたという=関西大年史編纂(へんさん)室提供写真千里山花壇をPRする昭和初期のポスター=関西大年史編纂(へんさん)室提供写真真ん中の橋脚が旧国鉄時代のもの。走っているのは相互乗り入れをしている大阪市営地下鉄の車両=大阪府吹田市図フォトギャラリー

 千里丘陵を覆っていた竹林が切り開かれ、千里山住宅地(大阪府吹田市)の分譲が始まったのは1922(大正11)年。大阪市中心部と結ぶ線路が敷かれたのを機に生まれた国内初の本格的な「田園都市」だ。

 千里山駅の近く。噴水を囲むロータリーから放射状に道路が広がる洋風の造りは、英国ロンドン郊外にあるレッチワースという街がモデルになった。

 1903(明治36)年にできたレッチワースの住宅地は田園都市の先駆け。劣悪な環境で暮らす都会の労働者のために考案され、4年後に内務省の役人が日本に紹介した。本国とは違って高級住宅地のイメージで受け止められ、千里山住宅地に続いて東京・田園調布の分譲も始まった。噴水とロータリーがある街づくりは次第に各地へ広がっていく。

 千里山住宅地は400戸で計画され、分譲開始と同年にできた関西大の千里山キャンパスに通う学生は当時約3千人。千里線は「高級住宅地の人々や学生の輸送をあずかるきわめて地味な支線だった」と阪急電鉄の社史は記すが、戦後の高度経済成長期を境に存在感が増す。10万人規模のニュータウンが開発され、関西大の学生は現在約2万9千人に膨らんだ。

 地味なんかじゃない。短い沿線には、田園都市の他にもたくさんの「国内初」や「日本一」がひしめいている。

■丘の上に咲いた文化の華

 大阪府吹田市の北部から豊中市にかけ、かつて標高60メートル前後のなだらかな丘がたくさんあった。千里にもわたって連なるように見えたことから、一帯は千里(ちさと)山と呼ばれていたという。

 阪急千里線の前身は、当時の北大阪電鉄によって1921(大正10)年に開業した千里山線。現在は天神橋筋六丁目(大阪市北区)―北千里(吹田市)の13.6キロを普通電車が結ぶ。丘陵地を上る北千里行きは平均時速38.3キロでゆったり進む。

    ◇

 天神橋筋商店街は延長2.6キロで国内最長、千里ニュータウンは国内初の大規模新興住宅地、67年に世界初の自動改札機が北千里駅に設置され、70年には国内初の万博開催……。沿線には「ナンバー1」がいっぱいだ。千里山駅の隣の関大前駅は名前が6回変わり、これも日本一という。駅名の変遷は時代を映し出している。

 開業当初は花壇前駅。北大阪電鉄は近くの丘に、桃の花見が楽しめる「千里山花壇」を造成した。その後、飛行塔などの遊具も備えた遊園地に改装し、38年に千里山遊園駅に変更。元中学教諭の武田卓さん(83)は「浴衣を着て、野外音楽堂へ無声映画を見に行くのが楽しみやったな。辺りにはホタルも飛んでいた」と子どものころを懐かしむ。

 戦争が激しくなると、「『遊園』とは不謹慎だ」と軍に注意され、43年に千里山厚生園駅に。戦後の46年に千里山遊園駅が復活したが、客足が戻らず園は50年に閉鎖された。

 その直後、跡地に宗教法人が女子校を開く構想が持ち上がって女子学院前駅になったが、慌てた関西大が土地を買収し、51年には花壇町駅に。北400メートルに開業時からあった大学前駅と64年に統合され、中間地点に現在の関大前駅ができた。

    ◇

 千里山住宅地の誕生から80年以上。英国風の優雅な家は数えるほどになり、当時の様子を知る住民も少なくなった。

 そんななか、レッチワースで一番人気のパブ「アリーナタヴァーン」の支店が01年、噴水近くに開業した。経営するミグ・イシモトさん(46)は「街から英国の薫りが消えていく。ルーツを取り戻したい」との思いから本店へ修業に出かけ、「のれん分け」をしてもらった。内装も料理も本店とそっくりだとか。

 関西大の学生らは今年4月、インターネット上に「千里山大正ロマン電脳博物館」を開設し、大学や住民が所蔵する写真などで往時の姿を紹介している。企画に加わった大学院生の渡会(わたらい)奈央さん(23)はゼミ教官の研究で千里山の歴史を知り、「ハイカラな街を造った大正時代の理想の高さに感動した」という。

 街の生い立ちを知れば、愛着がわく。そんな人が増えれば、今も周囲に竹林が残る田園都市は魅力を失わないだろう。

(文・宮崎勇作 写真・寺脇毅)

鉄っちゃんの聞きかじり〈旧国鉄譲りの橋脚〉

 阪急千里線の吹田駅と下新庄駅の間に、神崎川を渡る新神崎川橋梁(きょうりょう)がある。コンクリート製の角張った橋脚は新たに建設されたもので、所々に見えるれんが製の円柱状の橋脚は旧国鉄時代のものだ。

 吹田駅以南の大部分は、もともと旧国鉄の東海道線だった。旧国鉄が1913(大正2)年、スピードアップのためカーブの多い区間を現在のルートに変更。北大阪電鉄が古い線路の払い下げを受けた。高架の土台や駅の水路など、他にも旧国鉄時代の遺物は多い。

 千里線には、あずき色の阪急の車両だけでなく、大阪市営地下鉄堺筋線の銀色の車両も走っている。69(昭和44)年、千里線と堺筋線の相互乗り入れが始まり、北千里駅と堺筋線の天下茶屋駅(大阪市西成区)が直通で結ばれている。公営鉄道と私鉄の相互乗り入れは、これが関西で初めてのことだった。

探索コース

 千里山駅の南にある千里寺の本堂はユニークだ。もとは昭和天皇の即位大礼の際に京都御苑(ぎょえん)に建てられた宴会場。関西大へ移築されて道場などに使われた後、1953(昭和28)年に寺へ移った。酒宴が開かれただけにシャンデリアがある。噴水とロータリーは駅の西約50メートル。坂道を上ること約10分で千里山神社。ここが標高71.8メートルの千里山の頂上だ。

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