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ぷらっと沿線紀行

カーブにまっすぐ勝負 能勢電鉄

2008年9月27日

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写真能勢電の車両は親会社の阪急電鉄と同じあずき色になったが、今年は創立100周年を記念して復刻デザインの車両も一部区間で走っている=兵庫県川西市写真朝の日生中央駅。通勤客が並ぶホームに「日生エクスプレス」が入ってきた=兵庫県猪名川町写真1603年創建の能勢妙見山。奥に見えるのは本殿の屋根=大阪府能勢町写真能勢電などが企画したハイキングの参加客で妙見口駅前は大にぎわい=大阪府豊能町写真国鉄連絡線の川西国鉄前駅と車両=1961年、能勢電鉄提供地図フォトギャラリー

 日本生命などが開発したニュータウンから通勤客を運ぶ8両編成の特急「日生エクスプレス」は1997年に登場した。日生中央駅から兵庫県川西市を縦断して川西能勢口駅へ。そこから阪急宝塚線に乗り入れ、梅田駅へ向かう。山あいの住宅地から都心のターミナルまで28キロを40分余りで結ぶ。

 能勢電はかつて「ノロ電」と呼ばれていた。1908(明治41)年創立の能勢電気軌道が5年後に一部区間を開業した当時の時速は、たったの8キロ。全線単線で、半径100メートル以下の急カーブが何十カ所もあったからだ。「能勢電気軌道カーブ(株)式会社」という別のあだ名もついた。

 ここに線路が敷かれたのは、日蓮宗の霊場・能勢妙見山の参拝客を運ぶためだった。開運の守護神として知られ、年間40万人が参拝した。映画「王将」(48年)には、阪東妻三郎演じる坂田三吉が宿敵との対局前夜、旅館の物干し台に上がり「能勢の妙見さん、頼んまっせ」と拝むシーンがある。

 戦後、乗客が増えずに赤字を重ねた会社は傾きかけていた。昭和40年代になって宅地造成が進み、6万人だった川西市の人口は10年間で倍増したが、1両の「ノロ電」では客を運びきれない。スピードアップを実現するには大規模な線路改良が必要だった。

 多額の投資に命運を賭ける会社の指揮を執ったのは、草創期のプロ野球界を支えた男だった。

■神託の地 それぞれの転機

 能勢電が走る多田盆地は武士団の発祥地。清和源氏の祖、源満仲が970年に現在の大阪から移り住み、朝廷も介入できない「独立国」を築く。住吉大社で「北に向かって矢を射よ。矢の落ちる所を居城とせよ」との神託を受け、この地が選ばれたとの伝説がある。

 ひなびた農村にニュータウン開発という千年ぶりのにぎわいが押し寄せたのは能勢電にとって大きなチャンスだった。親会社になったばかりの阪急電鉄は1963年、一人の男を能勢電の専務に送り出した。

 60年まで阪急ブレーブスの代表を務めた村上実。当時56歳で、別の子会社の役員を務めていた。

    ◇

 もともと阪急百貨店の家具売り場で働いていた村上は35年、当時の小林一三社長から「プロ野球団をつくれ」と指令を受けた。発足を翌年に控えたプロ野球リーグに参入するため、元慶応大野球部マネジャーの経歴が買われた。

 能勢電の近代化という特命を受けた村上は、球界で培った経験を生かす。まず唱えたのはチームワークの大切さ。弱い球団ほど内部にトラブルを抱えていた。赤字に意気消沈する社員を励まし、「会社経営も野球と同じ。監督が頑張っても、選手が動いてくれなければだめだ」と説いた。

 銀行からの融資は窓口で断られたが、野球人脈を駆使してトップと直接交渉。粘り強く説明して資金を引き出した。逆境でもあきらめない姿勢は、勝負にこだわった世界で身についていた。

 66年に専務から社長へ昇格し、翌年から複線化とカーブを減らす工事が始まった。トンネルを掘り、鉄橋を架け、77年までに一部区間を除いて線路を敷き直した。78年には日生中央まで延伸する支線も開通。「ノロ電」は都市近郊型電車に生まれ変わり、90年代半ばまで乗客数を増やしていった。

 81年に社長を退いた村上は、後に社内誌で当時の心情を吐露している。「プロ野球経営に明け暮れた私にとって当社は第二の人生であった」「心の炎はいまだ燃えることをやめようとしない」――。99年に92歳で亡くなるまで相談役として能勢電にかかわった。

    ◇

 いま、ニュータウンにも高齢化の波が押し寄せる。最も早い66年に分譲された多田グリーンハイツは65歳以上の住民が3割を超え、「第二の人生」を迎えている。

 信者や修行者が足を運んできた能勢妙見山に最近、そんな年配者の姿が目立つようになってきた。住職の植田観樹(かんじゅ)さん(59)は「人生の続きに向けて、何かをつかみに来ているのでしょう」と話す。

 満仲の子孫の能勢頼次(よりつぐ)は豊臣秀吉に討たれ岡山へ逃れたが、徳川家康に重用されて古里・能勢の領地を再び手にした。復権への祈りがかなえられたことに感謝して日蓮宗に土地を寄進したのが、妙見さんの起こりという。

 人生の転機を考えるには、いいところかもしれない。

(文・柳谷政人 写真・諫山卓弥)

鉄っちゃんの聞きかじり〈サイダー輸送で再建〉

能勢電の起点・川西能勢口駅とJR川西池田駅との距離はわずか400メートル。27年前まで、この間を「国鉄連絡線」が結んでいた。誕生は1917(大正6)年。その3年前に資金繰りがつかず破産宣告を受けた能勢電の起死回生策だった。

 当時は貨物収入が大きく、中心は「三ツ矢サイダー」。沿線の鉱泉を使った国内初の炭酸飲料で、源満仲が放った矢にちなんで名付けられたという。出荷されるサイダーの大半は川西能勢口駅から川西池田駅まで荷車で運ばれ、国鉄に載せられていた。そこで能勢電が国鉄まで線路を延ばしたところ貨物収入が倍増。川西池田駅に隣接して川西国鉄前駅を設けて乗客も増やし、1年後に会社を再建した。

 48年に貨物輸送をやめ、乗客も激減。それでもレトロな雰囲気が鉄道ファンに愛され、81年の「さよなら運転」には2千人が集まった。

探索コース

 妙見山にはクヌギやブナなどの原生林があり、秋のハイキングにお勧め。能勢電のケーブルカー、リフトを使えば手軽に山頂まで行ける。妙見口駅からのコースは数多く、きれいに管理された里山は「日本一」との評判も。中腹にある「妙見山クッキングセンター」では、バーベキューに必要な食材がすべてそろうので、手ぶらでもOKだ。

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