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ぷらっと沿線紀行

守る かぐわしき桃源郷 南海高師浜線

2008年11月15日

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写真南海高師浜線の伽羅橋駅付近。夕日を浴びた電車が住宅街の中を縫うように走っていく写真国の登録有形文化財になった赤木宗成さん宅。かつて立ち並んでいた同様の洋館はほとんど残っていない=大阪府高石市写真造成中の「キャラバシ園」をPRした大正時代のポストカード=赤木宗成さん提供写真「キャラバシ園」を開発した山川逸郎=赤木宗成さん提供写真大正モダンの趣を伝える高師浜駅。ステンドグラスには波間に舞う鳥が描かれている=大阪府高石市地図   フォトギャラリー

 「ユートピア」と呼ばれた高級住宅街が、南海高師浜(たかしのはま)線の沿線にあった――。うわさを頼りに大阪府高石市内を歩くと、コテージ風の古い洋館を見つけた。

 不動産登記簿を明治時代までさかのぼると、当時の土地の所有者は庄屋の家系を継いだ山川七左衛門。1925(大正14)年に建てられた洋館は、大阪・ミナミで料亭を営み、旧高石町の町長も務めた飯井定吉の邸宅だった。

 設計したのは七左衛門の弟の逸郎。米国留学から戻り、この近くに高級住宅街「キャラバシ園」を造成した。21年12月発行の雑誌「建築と社会」は、「高師の浜に浮き出た桃源郷」と表現した。

 南海本線の羽衣駅から分岐して全長わずか1.5キロ、2駅目が終点の高師浜線は、住宅開発のため七左衛門ら地元の名士が土地を寄付して引き込んだ。近代建築に詳しい大阪芸術大教授の山形政昭さん(59)は「郊外型住宅の先駆け的存在」と評する。

 現在の洋館の所有者は、大阪・心斎橋のカステラ店「銀装(ぎんそう)」の2代目社長、赤木宗成さん(65)。東京で証券会社を営んでいた父が52年に銀装の前身の店を開業した際、ここへ移り住んだ。「昔のたたずまいを後世に残したい」。赤木さんは自邸を国の登録有形文化財に申請し、00年に実現した。

 地元には、失われつつある古いものを守ろうとする思いが根付いていた。

■かけがえのない場所だから

 4世紀末〜5世紀初めに日本へ漢字や論語を伝えたとされる百済の渡来人・王仁(わに)博士の子孫、高志(たかし)氏が住み着き、高師浜と呼ばれるようになったとの説がある。近くに浜寺という地名があるのも、南北朝時代に建立された大雄寺(だいゆうじ)(戦国時代に焼失)の愛称が「高師浜の寺」だったからだという。

 約430年前。豊臣秀吉は紀州征伐の帰りに高師浜の近くを通りかかった。小さな川に架かる橋で休憩中、たばこの火を落とすと素晴らしい芳香が立ちこめた。高級香木の伽羅(きゃら)で橋が造られていたからだ。伽羅橋には、そんな伝説もある。

    ◇

 米国風の住宅街キャラバシ園の第1期工事は1923(大正12)年に完了。三角庭園に芝生が敷き詰められ、噴水やベンチがあった。周囲に十数軒の洋風住宅が並び、敷地は1戸あたり100〜200坪。ボイラー用の地下室、給湯設備やスチーム式の暖房器具があり、トイレは当時珍しい水洗式。まさにユートピアだった。

 設計した山川逸郎が建築の素人だったからこそ、大胆な構想が実ったのかもしれない。渡米前は自動車整備業を営み、留学中の研究も自動車構造。「旧来の経験に捕らわれ、実は使い勝手が悪い」と大阪の大工を排除し、地元で雇った。常識を捨て、理想を求めた。

 昭和に入ると逸郎は住宅開発への情熱をなくし、芦屋へ引っ越す。白砂青松で名高かった浜辺は、57年に始まった堺泉北臨海工業地帯の造成で失われた。立ち並んでいた洋館も次第に姿を消し、広大な敷地は切り売りされた。街は少しずつ庶民的なたたずまいになっていった。

    ◇

 大阪万博が開かれた70年、高師浜駅と伽羅橋駅の一日の乗降客は計約9700人のピークを迎える。その2年後、高師浜駅の近くに府立臨海スポーツセンターが建設された。

 日本を代表する建築家で、古都の情景と現代建築を調和させた京都国立近代美術館などの作品で知られる槇(まき)文彦さん(80)が設計。地域に根付くことを願い、広い廊下など開放的なデザインを施した。関西では数少ない通年型のスケートリンクがあり、06年トリノ五輪に出場したフィギュアの高橋大輔選手も本拠にした。

 だが、今年4月に発表された府の財政再建案は、センターの閉鎖を盛り込んだ。かつてあったものが次々に消えていったこの街で、お年寄りが集まり、子どもが遊ぶ場でもあるセンターはかけがえのない存在。住民や利用者らは「存続の会」を結成し、1カ月で13万人余りの署名を集めた。これに押される格好で、府は当面存続させる方針に転換した。

 ここで生まれ育ち、9歳の娘をフィギュアスケートの練習に通わせる天野真理さんも存続を訴えた一人だ。「センターは今や、洋館と同じように守っていかなければならない地元の風景なんです」

(文・八木正則 写真・伊藤恵里奈)

鉄ちゃんの聞きかじり〈大正モダンの駅舎 いまも〉

 1919(大正8)年に全線開通した南海高師浜線。高師浜駅の駅舎は開業当時のままだ。洋館風で窓には美しいステンドグラス。設計者は不明だが、明治時代に造られた南海本線浜寺公園駅と様式が似通っていることから、同駅や大阪市中央公会堂などの設計に携わった著名な建築家・片岡安(やすし)がかかわったのではないか、との見方もある。

 70年の高師浜線高架化に合わせて、高師浜駅の解体・改築が検討されたが、地元の熱意で残されたという。古くからの住民に聞くと、保存運動が起きたという証言はなかったが、「山川七左衛門さんの駅なんやから、南海が勝手に壊せるはずがない」と言う人も。

 高師浜線は羽衣駅と高師浜駅の間で折り返し運転されているが、海水浴客でごった返した昭和初期には、本線を通って難波駅まで直通運転されたこともあるという。

探索コース

 高師浜駅東側の高石神社の境内には、老松が広がる。百人一首の「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」の歌碑も。伽羅橋駅前には南北朝時代の高僧・三光国師が建立した大雄寺の記念碑がある。大正時代に住民が設置した。幕末に架け替えられた伽羅橋は1988年に高砂公園へ移設。今年3月、国の登録有形文化財になった。

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