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【100回記念】捨てられかけた巨大駅 JR大阪駅

2009年6月23日

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写真再開発工事が進むJR大阪駅。ホームに北陸行きの特急を待つ乗客たちのシルエットが浮かび上がった=大阪市北区地図   フォトギャラリー

 [新聞掲載]2008年4月5日(ぷらっと沿線紀行が2009年6月27日付で100回を迎えるのを記念して、反響の大きかった10エピソードを紹介します)

 午前8時、JR大阪駅の朝の通勤ラッシュはピークを迎える。5面10線のホームに近畿一円から通勤電車が到着し、はき出された人波は階段や通路を埋め尽くす。

 06年度の1日平均の乗車人員は約42万3千人。JR駅では新宿、池袋、東京、渋谷に次ぎ5位だが、「日本一」の時代があった。

 「汽車は、十五時間かかって、岐阜から大阪駅に着いた。(中略)大阪駅のホームからは、闇市の夥(おびただ)しいバラックが見えていた」

 作家、宮本輝さん(61)の自伝的大河小説「流転の海」の冒頭。実父をモデルにした主人公・松坂熊吾(くまご)が敗戦から1年半後の1947(昭和22)年3月、大阪駅前の闇市から再起を図る場面だ。

 当時大阪鉄道局にいた元衆院議員の野中広務さん(82)は「駅の南側は(密造酒の)どぶろく街。浮浪者が寝そべってバラックを建て、いまは想像もできない無残な姿でしたね」と話す。

 第5部まで刊行されてなお完結しない畢生(ひっせい)の大作を大阪駅から書き始めた理由を、宮本さんはこう明かす。「大阪という独特の多様性を持つ都市を中心に展開することを、まず最初にそれとなく、しかし強く、宣言しておきたかったのです。あらゆる関西人とおなじく、私にとって大阪駅は、無数の思い出の巣窟(そうくつ)です」

 人の往来と街の中心にある、この巨大駅を放棄し、別の場所に新駅をつくる構想があった。

■支えられ続けて、今

 昭和20年代後半、大阪駅は至る所で地盤沈下を起こしていた。

 駅東端では最大で1.8メートルも沈下し、線路の勾配(こうばい)は基準値の7倍を超えた。100メートル走ると2.5メートルの落差が生じる傾き(25パーミル)。コンコースにも段差ができた。いまも構内のあちこちに残る階段やスロープはその名残だ。

 大阪発東京行きの急行列車は出発直後、蒸気機関車の動輪がごう音をあげて空転した。機関車1両では足りず、2両で引いたことも。線路の下に砂利を詰めてかさ上げしたが、荷重でさらに沈む悪循環で、「東海道線最大の難所は大阪駅」といわれるほどだった。

   ◇

 1953(昭和28)年、後に国鉄総裁を務めた仁杉巌さん(92)は、国鉄大阪工事事務所の次長に就くと同時に対策を迫られた。鉄道技術研究所とチームを組んで原因究明にあたった。

 駅の地下を掘削調査すると、梅田粘土層と呼ばれる軟弱地盤が続き、地下約30メートルで天満砂礫(されき)層という固い地盤にやっとたどり着いた。梅田の語源は「埋め田」と言われるように、まるで豆腐の上に駅舎が載っている状態だった。

 高架橋の基礎くいには、天満層まで届く長いくいと、届かない短いくいが混在したため、等しく沈下せず、落差が生じていたのだ。

 仁杉さんは「確実に沈下を食い止められる工法があったわけではなかったので、今の大阪駅を捨ててもっと北の方に移してしまう案も実際に検討した」と振り返る。

 現在の東淀川駅付近に新「大阪駅」をつくる案だったが、現在駅の立地条件や大阪市の交通網に与える影響、巨額の費用の点などから断念したという。

 選ばれたのは、地中で短いくいを長いくいに取り換える、当時ほとんど例のなかった「アンダーピニング」という工法だった。

 直径1.2メートルの穴に人間が入り、スコップで土砂をかき出しながら地中を25メートル掘り進めるという過酷な作業。「無事故だったのが幸運なくらいの難工事」。当時大阪工事区長だった京都大名誉教授の天野光三さん(79)は「地震、来ないでくれよ」と念じながら部下の作業を見守った。

 62(昭和37)年までの5年間に計245本のくいが打たれ、沈下は止まった。同じ年、地下水のくみ上げを規制する法律が制定され、沈下原因も解消に向かった。

   ◇

 大阪駅北側では28階建ての新しい駅ビルの建築工事が進む。ホームの上には橋上駅が架けられ、その上を巨大ドームが覆う新駅として、2011年に生まれ変わる。

 4日未明、大阪駅に行った。午前1時8分、最後の乗客を乗せた熊本・大分行きの寝台特急「はやぶさ・富士」が、4番線から走り出た。赤いテールランプが闇に消えると、構内は静まりかえった。誰もいなくなったホームを踏みしめてみた。見えない地中にある先人の労苦が未来の駅を支える――。その遺産の大きさを思った。

(文・千葉正義 写真・森井英二郎)

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