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ぷらっと沿線紀行

トンネル抜ければ朝 JR紀勢線 新宮駅周辺

2009年11月21日

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写真「新宮城」跡のトンネル(右)から走り出る特急「南紀」。朝焼けの空に製紙工場の煙がたなびく=矢木隆晴撮影写真熊野川を下る川舟で大きく深呼吸。フランスなど海外からの旅行者も多い=矢木隆晴撮影写真神倉神社のご神体「ゴトビキ岩」写真熊野速玉大社のオガタマノキ=いずれも和歌山県新宮市写真新宮城跡に今も残るケーブルカー跡地図   フォトギャラリー

 和歌山、三重県境を流れる熊野川。平安時代以降、貴族らはこの熊野川を小舟で下り、聖地・熊野三山の一つ、熊野速玉大社(和歌山県新宮市)に参った。

 三山と参詣(さんけい)道の熊野古道は04年、世界遺産に登録された。珍しい「水上の参詣道」の熊野川も世界遺産に含まれる。

 今月中旬、朝焼けに包まれた早朝の熊野川河口部。新宮発名古屋行きの特急「南紀」が、小高い丘を貫く丹鶴トンネル(長さ173メートル)を抜け鉄橋を渡った。丘には江戸時代、紀伊徳川家の家臣・水野氏が居城とした「新宮城」があった。廃藩置県で廃城となり、1875年までに取り壊され、今は石垣だけが残る。トンネルは1936年ごろ、城跡の真下を突っ切る形で造られた。翌年、日中戦争が起きる。

 「当時は『富国強兵』で何も考えていなかったんじゃないか。今なら『貴重な文化財を壊す』と批判されるかもしれません」。新宮市立図書館司書の山崎泰さん(56)はそう話す。

 旧国鉄は、紀伊半島をつなぐ紀勢線の全線開通をめざした。輸送強化は軍事上の喫緊の課題だった。しかし、丘の周辺には製材工場や問屋、商店がひしめいていた。これらを避け、丘にトンネルを掘る方法が採られた。

 その後工事は難航する。紀勢線全通は丹鶴トンネル開通から20年余りを経た1959年。高度成長を迎え、東海道では新幹線の工事が始まっていた。

■大いなる「未開」 わが誇り

 難工事となったのは三重県尾鷲―熊野市間の34キロだ。紀勢線の歴史に詳しい和歌山県立串本高校の左近晴久教諭(45)によると、この地域は複雑に入り組んだリアス式海岸で、多くのトンネル造成が必要だった。戦局の悪化で工事も中断され、全通はさらに遠のく。

 新宮市出身の作家・佐藤春夫は新宮城跡近くで少年時代を過ごし、自伝的小説「わんぱく時代」を著した。紀勢線が全通した1959年、「鉄の熊野路を行く」と題した試乗記を朝日新聞(名古屋本社版)に7回連載した。

 「祝わずになるものか」。そう喜ぶ一方で、「ロケット時代にやっと汽車の開通を祝賀する一世紀以上も時代おくれの古国熊野」と皮肉った。今も「陸の孤島」と揶揄(やゆ)される熊野。だが、春夫はこうも書いている。

 「古国熊野には、せめてそれだけのそう(蒼)然たる古色を郷土色として保存して置きたい。これは古典的地方とも称すべきで、今さら争って新を競う土地がらでもあるまい」

   ◇

 戦時中、いかだ師になった和歌山県北山村の福本保さん(82)は「ひっきりなしにいかだを流した。三重と和歌山が地続きかと思うくらい、河口に材木が浮かんでいた」と当時を懐かしむ。

 熊野川上流の北山村にはその頃、200人を超えるいかだ師がいた。切り出された木材をつないだいかだを巧みに操り、瀞峡(どろきょう)の急流を下る。人家に泊まりながら3、4日かけて新宮市の貯木場へ着くと賃金がもらえた。歓楽街はいかだ師たちでにぎわった。

 だが、50年代になるとトラック輸送が始まる。木材の輸入自由化で林業が衰退したことも相まって、村のいかだ流しは63年に廃止された。いかだ師たちは仕事を求め県内外へ散り、福本さんはジーンズの縫製工場で勤務した。

 村は79年、伝統のいかだ下りを観光用に復活させた。福本さんも復帰し、6、7年前に引退するまで、後継者を育てながら櫂(かい)をこいだ。「人の安全を預かるという新しいプレッシャーがあった。でも、うれしかった」。いかだ師は現在、計11人。乗船客の累計は昨年15万人を突破した。

   ◇

 5月。自転車120台が新宮駅から一斉に駆けだした。公道レース「ツール・ド・熊野」。海外のプロ選手らが熊野川周辺などのコース約370キロを走る。

 「都会で不可能なイベントを実現できることが熊野の魅力。もっともっと他県の人を引き寄せたい」。主催する新宮市のNPO「スポーツプロデュース熊野」の角口賀敏(よしとし)理事長(57)は話す。08年の10回大会からは、「ツール・ド・フランス」で有名な国際自転車競技連合(UCI)認定の国際ロードレースに昇格した。

 「自尊心を持って君たちの未開の郷土を誇りたまえ」。連載の春夫の言葉は、熊野を愛する人たちに受け継がれている。

(文・渡辺秀行 写真・矢木隆晴)

鉄ちゃんの聞きかじり〈消えたケーブルカー〉

 民有地となった新宮城跡地に、長さ76.2メートルのケーブルカーがあった。跡地に旅館を開業した地元の観光会社が、客の移動用に設けた。近畿運輸局によると、運行開始は54年。

 当時の鉄道雑誌によると、ケーブルカーは重さ約1トンで定員約10人。年間1万5千〜1万8千人が利用していた。旅館は経営不振で80年に休業、ケーブルカーも廃線となった。

 同年秋にケーブルカーは一度だけ「復活」した。当時の皇太子妃美智子さま(皇后)と紀宮さま(黒田清子さん)が新宮市を訪れた際だ。地元紙には、ケーブルカーで山頂に行き、城の歴史や市の文化について当時の市長から説明を受け、太平洋を一望できる景観を楽しむ様子が報じられている。

 その後、城跡は市が公有地化を進め、公園として整備された。発掘調査の結果、03年には国史跡に指定された。

探索コース

 熊野速玉大社や佐藤春夫記念館は、新宮駅から徒歩約15分。近くの神倉神社では、ご神体のゴトビキ岩が市街地を見おろす。熊野川川舟センター(0735・44・0987)から、速玉大社近くまで川舟下りができる。12〜2月はチャーター便(6人以上で事前予約が必要)のみ。奥瀞峡(おくとろきょう)の清流6キロを1時間かけて巡る北山村の観光いかだ下りは5〜9月。

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