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ぷらっと沿線紀行

大空襲 一夜の奇跡 地下鉄・御堂筋線

2009年12月26日

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写真雄大なドームの心斎橋駅。1945年3月の大阪大空襲では、大勢の人が避難したという=大阪市中央区写真イルミネーションで彩られた師走の心斎橋を行き交う人たち=大阪市中央区写真空襲で焼け野となった心斎橋筋。左奥に大丸百貨店が見える=1945年3月、矢追又一さん撮影写真御堂筋線開通当時のあんどんが残る地図   フォトギャラリー

 年の瀬の夜、イルミネーションに彩られた大阪市の御堂筋。会社員や正月準備の買い物客らが慌ただしく行き交う。64年前、この一帯は火の海となった。

 1945(昭和20)年3月13日深夜から14日未明。大阪市上空に、米軍のB29戦略爆撃機274機が来襲した。低空から投下された焼夷(しょうい)弾が、次々に木造の家屋を焼き尽くした。

 12歳だった近藤豊子さん(76)=大阪府豊中市=は西区にあった自宅を飛び出した。家族は祖父母と両親、きょうだい5人の計9人。母は、水でぬらした防空ずきんをかぶせてくれた。安全な場所を求めてさまようなか、母、足の不自由な祖父とはぐれた。

 御堂筋にたどり着くと、地下鉄心斎橋駅の出入り口が開いていた。やがて到着した電車で梅田へ避難した。しかし、構内で祖父と母を待ち、梅田の地下街で我に返るまでの記憶がない。どうやって電車に乗ったか。車内は込んでいたのか。はぐれた時は兵庫県の親類宅で落ち合う約束だったが、地下鉄に乗れなかった母と祖父には二度と会えなかった。

 大阪市交通局によると、空襲時の地下鉄の運行は禁じられていた。強力な爆弾でトンネルが破壊され、乗客が死傷する恐れがあったからだ。45年当時の運行資料などは敗戦直後に処分され、記録は残っていないという。

 でも、自分は確かに乗った。そして、命を救われた。

■命乗せ チカテツは走った

 「大大阪(だいおおさか)の地下に脈うつ新生の血管/誕生だ! 我らのチカテツ」

 1933(昭和8)年5月21日付の大阪朝日新聞は、大阪市営地下鉄の開業をこう報じた。梅田―心斎橋間(3.1キロ)を5分30秒で結んだ。当時、東京には民間の地下鉄があったが、公営地下鉄は国内で初めてだった。

 拡幅された御堂筋沿いにはモダンなビルが立ち並んでいた。建築史家で大阪府立大教授の橋爪紳也さん(49)によると、「大大阪」の都市構想には、電化▽地下も使う都市の立体化▽高速移動の三つがあった。「御堂筋かいわいは当時、人々が思い描いた未来都市そのもの。地下鉄は欠かせなかった」と指摘する。

 アーチ形の高い天井、シャンデリア風の電灯など内装にも大阪市の意気込みがうかがえた。建築家らがつくる団体「DOCOMOMO(ドコモモ) JAPAN」は2003年、近代名建築「100選」に地下鉄御堂筋線を選んだ。

      ◇

 45年、B29機100機以上が爆撃した大阪大空襲は8回に及んだ。3月13、14日の第1次大阪大空襲では市中心部の約13万千戸が焼け、約4千人が死亡した。

 京大名誉教授の村松繁さん(77)=京都市左京区=は12歳だった。猛火に追われ、父と姉、兄と心斎橋にたどり着いた。

 「早く入りなさい」。駅員がホームに誘導してくれた。地下の構内には大勢の人がいた。30分ほどたったころ、難波駅方面から電車が到着した。空襲でみな混乱していたが、先を争って乗ったという記憶はない。ぎゅうぎゅう詰めではなかった。梅田に着くと、夜が白々と明けかけていた。梅田は焼けていなかった。

 心斎橋にほど近い西区にある最勝寺。住職の佐野彰義さん(62)の母で、89年に亡くなった義(よし)さんも地下鉄で避難した一人だ。空襲時の恐ろしい体験を繰り返し話してくれた。護憲運動に取り組む佐野さんは来年、仲間たちと劇「地下鉄は動いていた―大阪大空襲」を作り演じる予定だ。

 「若い人たちに大空襲のことを伝え、受け継がせなければならへんのです。憲法9条を守り、平和を守るために」

      ◇

 市交通局の労働組合でつくる公営交通研究所は、市民や職員OBに第1次大空襲時の地下鉄運行について情報提供を呼びかけ、結果を98年3月に組合紙に掲載した。市民43人が地下鉄構内に避難し、うち36人が地下鉄に乗ったとの証言を得ることができた。

 同研究所は、村松さんらが乗ったのは始発電車の前に駅員を各駅に送る「お送り電車」ではないかとみている。同研究所の担当者は「見るに見かねて被災者を駅に入れ、お送り電車などに乗せたのかもしれない。当時は職務違反の恐れがあり、語り継ぐこともなかったのではないか」と話す。

(文・鈴木 剛志 写真・寺脇 毅)

鉄ちゃんの聞きかじり〈香り立つモダニズム〉

 地下鉄御堂筋線で最初に開業した梅田―心斎橋間の各駅のホームは、豪壮なアーチ形の高い天井が特徴だ。開業当時は、そんな天井に見合うシャンデリア風の立派な電灯も据え付けられていた。改修されても、その精神は受け継がれ、御堂筋線の照明は味のある独特な形をしている。

 天王寺駅のホームから階段を上がったところにある電灯は、駅が開業した1938(昭和13)年当時の形を唯一、残している。

 新しい照明では、本町駅のホームデッキにある蛍光灯もユニークだ。よく見ると「HOMMACHI」の英文字の形で配列されている。当初は直線で配置する予定だったが、冷房の吹き出し口と重なるため、できなくなった。その際、「設計担当者の発想の転換」(大阪市交通局)でこのような配列にしたという。

探索コース

 大阪の威信をかけて整備された御堂筋の周辺には、モダンな建築物が多く造られた。耐震性の問題などで取り壊されたものもあるが、今も存在感を放つ建物が残ってもいる。地図の(1)〜(5)は、橋爪紳也さんが挙げたそんな建物の一部。特にお勧めは1927(昭和2)年に建設された芝川ビル。ユニークなマヤ・インカ様式の装飾が美しい。

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