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ぷらっと沿線紀行

風雪100年、いざさらば 山陰線 余部鉄橋

2010年3月6日

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写真寒空に架かる朱色の余部鉄橋。今秋には新しいコンクリート製の橋に変わり、100年の歴史に終止符を打つ写真余部鉄橋を走る列車内。写真を撮る客で、海側の席はいっぱいになった写真菩薩像の周りを清掃する岡本倫明さん写真余部駅から列車に乗る人たち。隣の鎧駅まで行きUターンする観光客が多かった写真JR余部駅=いずれも兵庫県香美町地図   フォトギャラリー

 どんよりした鉛色の空に架かる朱色の鉄橋。高さ41メートル、長さは310メートルに及ぶ。海沿いの集落の上を、山陰線の列車が轟音(ごうおん)を響かせ渡っていく。

 「この鉄橋は、どこですか」。窓の外を見た前の席の男性が驚いた表情で尋ねる。殺人事件の捜査で偶然、乗り合わせた神奈川県警の刑事だ。夢千代が静かに答える。「余部(あまるべ)です」

 1981年にNHKで放送されたドラマ「夢千代日記」の冒頭のシーン。夢千代は、山陰の小さな温泉街の置屋を切り盛りする芸者。広島に投下された原爆で胎内被爆し白血病を患う。女優の吉永小百合さんが演じた。

 余部鉄橋は1909(明治42)年に着工され、延べ25万人が従事し、2年余りかけて完成した。当時は東洋一の規模だった。

 橋脚の鋼材はアメリカから3カ月かけて船で運んだ。地元の元国鉄職員、山西岸夫さん(87)の義母は10代の頃、鉄橋建設のくい打ち工事に携わった。鋼材は浜から陸揚げされた。過って海に落とせば、またアメリカから取り寄せなければならない。失敗は許されなかった。

 「『船が浜に来た時、いつもなぎやった。不思議やったあ』。ばあさんはよう言うてました」。山西さんが振り返る。

 その余部鉄橋で今、コンクリート橋への架け替え工事が進む。完成は今秋の予定。朱色の鉄の橋は間もなく役割を終える。

■菩薩と見守る町の記憶

 鉄橋の下に菩薩(ぼさつ)像がある。地元の元銀行員、岡本倫明さん(75)はほぼ毎日、菩薩像の周りを掃除し手を合わせている。

 86年12月28日、鉄橋を走行中の回送列車が突風にあおられて転落した。乗っていた車掌1人と、鉄橋直下にあった水産加工場で働く女性従業員5人が死亡し、6人がけがを負った。菩薩像は亡くなった犠牲者の慰霊碑だ。

 女性従業員の一人が、妻の晴子さん(当時46)だった。事故当日、晴子さんは昼食を取るために一度、自宅へ戻った。一緒に食事をし、再び加工場へ向かった。それが最後の姿となった。「もう少し遅く家を出ていたら、助かっていたかもしれない」。無念の思いが今も胸にある。

 昨年12月28日、菩薩像前で法要が営まれた。鉄橋を仰ぎ見ての法要としては最後となった。「鉄橋は憎くないし、なくなるのは寂しい面もある。私が元気なかぎりは菩薩像を守り続けます」。岡本さんは静かに語った。

   ◇

 転落事故後、鉄橋の運行規制が風速25メートルから20メートルへと強化された。「ウラニシ」と呼ばれる強い季節風が吹く冬は列車の運行が滞るようになった。存続を望む声もあったが、兵庫県や関係自治体でつくる協議会は2002年、鉄橋を架け替える方針を決めた。

 新しい橋は約30億円かけて今の鉄橋から約7メートル南にできる。工事は07年春に始まり、現在は全体の8割ほど進んでいる。

 03年以降、鉄橋を見に来る人が急増した。06年度の旧香住町(05年に合併し香美町に)の観光客数は約79万4千人で、前年度から約25万人も増えた。

 地元の観光協会は06年から、鉄橋の歴史などを説明する「鉄橋ガイド」のサービスを始めた。現在、ガイドは元国鉄職員の山西さんら計4人。山西さんはこれまで500人以上に語ってきた。年賀状や手紙の礼状が届く。それが何よりの励みという。

 貴重な近代遺産を残そうと、鉄橋の11基の橋脚のうち3基を保存して展望台などに活用することなどが検討されている。

   ◇

 しかし、余部の住民には、鉄橋自体がなくなると、外から人が訪れない「陸の孤島」になるのではとの危機感がある。

 自治会や婦人会、老人会などでつくる「明日の余部を創る会」は、鉄橋跡地近くで計画される道の駅を舞台に観光客を増やす活性化策を練っている。今月には、東隣の山陰線鎧駅近くまで、香住海岸を眺望できる遊歩道(約3キロ)が完成する予定だ。兵庫県が整備するこの遊歩道で今秋、オリエンテーリングを催す計画が進み、特産品の開発も考えている。

 創る会会長の山本美津男さん(65)は「住民と共に生きた鉄橋が消えるのは断腸の思いだが、50年後、100年後のために多くの観光資源を生かして、余部の魅力を伝えていきたい」と話す。

(文・瀬戸口和秀 写真・荒元忠彦)

鉄ちゃんの聞きかじり〈駅建設、小学生も手伝い〉

 余部鉄橋が完成しても地元には駅がなかった。住民は1955年ごろから国鉄などに駅の設置を陳情。余部小学校の児童も兵庫県知事に手紙を書いた。59年1月に設置が承認された。

 駅の工事が始まると、余部の児童らも大人たちと一緒に海岸から石を運び、駅までの道やホームの建設を手伝った。同年4月に念願の余部駅が誕生し、一番列車の到着を住民総出で歓迎した。

 余部小の校歌2番の歌詞には「緑の谷に そびえたつ 鉄をくみたる 橋の塔」とあり、今も歌い継がれている。

 駅の開設から50周年を記念したイベントが昨年4月にあり、余部小の児童らが建設当時にならって海岸から石を運んだ。鉄橋のかけ替えに伴う駅の改築工事では、約50年前に児童らが運んだ石が出てきた。住民らは、改築後の駅をアピールする企画に生かすことを考えている。

探索コース

 ギャラリー「虹と花の谷 余部」では、鉄橋の廃材となった鋼材のサビを「鉄橋の形見分け」として販売(10グラム、300円)している。管理人の米澤照夫さん(62)が「甲子園の砂」からヒントを得た。御崎灯台は海面から光源までの高さが284メートルと日本一高い。国の天然記念物「鎧(よろい)の袖」は、岩肌が武士の鎧の袖に似ており、その名が付いたとされる。

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