香櫨園駅を出た電車の背景に六甲山系と青空が広がった=兵庫県西宮市、寺脇毅撮影
19日、香櫨園駅を降り立つとサクラが開花していた=兵庫県西宮市、寺脇毅撮影
2001年に建て替えられた駅舎は明治時代のようなレトロな造り=兵庫県西宮市
香枦園テニスクラブ=兵庫県西宮市
夕暮れの香櫨園浜。海面の輝きに、憩う人たちのシルエットが浮かぶ=兵庫県西宮市
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閑静な住宅街で知られる兵庫県西宮市・夙川。せせらぎが響く川沿いの公園には約2.8キロにわたり桜並木が続く。陽光を受け、淡い花弁が開き始めた。
住環境の良さを反映し、下流約1キロの間に阪急、JR、阪神の3駅がひしめく。阪急は「夙川駅」、JRは「さくら夙川駅」と駅名に夙川を冠するのに対し、阪神は「香櫨園(こうろえん)駅」だ。その由来は1世紀前にさかのぼる。
日露戦争の2年後の1907(明治40)年。今の香櫨園駅の北約600メートルの片鉾池(かたほこいけ)周辺に、関西最大の遊園地が開園した。広さ約26ヘクタール。ジェットコースターの元祖とも言える滑り台状の遊具「ウオーターシュート」やメリーゴーラウンドがあった。動物園や音楽堂、宿泊用の旅館なども備え、夢の空間を演出した。
開発したのは大阪の砂糖問屋の香野蔵治と櫨山(はぜやま)喜一。2人の名から、遊園地は「香櫨園」と名付けられた。1905年に大阪―神戸間に鉄道を開通させた阪神も経営に参画。開園に合わせ「香櫨園停留場」(当時)を開業した。
地元の米田和正さん(60)は、亡くなった祖父から遊園地のことを聞いた。片鉾池で釣りや水遊びをしながら、「ウオーターシュートはどんなものだったのだろう」と思いを巡らせた。
鉄道利用の呼び水にと期待された「香櫨園」だったが、わずか6年後、閉園を迎える。
■浜風が語る 歓声の名残
「時代を先取りし過ぎたのかもしれない」。元小学校長で、地元の郷土史家の山本実さん(81)はそう話す。
遊園地「香櫨園」には当時、まだ珍しい施設が多かった。遊園地で遊ぶことが根付いていない時代。経営は次第に悪化し、地主から値上げを求められたことも影響し閉鎖が決まる。園の遊具などは、阪神が開発した夙川河口の香櫨園浜海水浴場に移された。
香櫨園駅前でたばこや駄菓子の販売店を営む阪下吉男さん(59)は「幼い頃、浜にあった飛行機状の回転遊具を見た記憶がある」と語る。小学生になると、家から浜まで夙川沿いの道を、友人と水着で駆けた。砂浜ではラムネや瓶入りアイスコーヒーを売る店や海の家が繁盛していた。
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大学テニス界で香櫨園は特別な意味を持つ。全日本学生テニス選手権(インカレ)は過去に17回、駅南約1キロにある「香枦園テニスクラブ」で開かれた。地元の大手酒造「白鹿」が運営母体だ。
元プロテニス選手の宮地弘太郎さん(36)も亜細亜大の学生時代、香櫨園を目指した。2年生だった1993年の決勝の相手は同じ大学の先輩だった。「ジュニア時代から有名で、背中を追いかけてきた人。胸を借りるつもりで挑んだ」。あこがれの先輩を破り、初優勝を果たした。
翌年も決勝は同じ顔合わせになった。4時間半の接戦。今度は逆転負けで準優勝になる。プロ入りを決意して臨んだ4年生の時、再び優勝を手にした。
インカレの開催地は99年を最後に香櫨園を遠ざかり、香枦園テニスクラブは規模を縮小。コートの半分はマンションに変わった。07年から関西国際大講師となり関西に移り住んだ宮地さんは昨年、家族でクラブを訪れた。「強い日差しと浜風が印象的なコートだった」と懐かしむ。
香枦園テニスクラブは、宮本輝さんの小説「青が散る」の舞台にもなった。「東京の会合などで『学生の時、行きました』と声を掛けられる。全国的に知られているのはありがたい」と、田村信一支配人(61)は言う。
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活況を続けた香櫨園浜海水浴場は、高度成長期の沿岸開発などによる水質汚染で1965年、閉鎖される。
砂浜は今も残り、浅瀬にはカニや貝が生息。ユリカモメやサギが飛び交う。だが、海水浴場だったころに比べ、砂浜はだんだんとやせてきているという。
2月下旬の日曜の朝。住民らが浜にスコップやゴミ袋を持ち寄り集まった。浜の姿を維持しようと、住民や企業が昨年発足させたボランティア団体「チーム里浜」のメンバー。雑草を引き抜き、バーベキューで捨てられた炭のゴミなどを拾った。「子どものころに遊んだ柔らかい砂浜を次世代に残したい」。代表の加藤一郎さん(80)の願いだ。
(文・和気真也 写真・寺脇毅)
探索コース
香櫨園駅周辺では美術館巡りも楽しめる。辰馬考古資料館は酒造会社「白鷹」の蔵元が集めた考古資料や富岡鉄齋の絵画を所蔵している。次回開館は27日〜5月5日、午前10時〜午後4時半、月曜休館。西宮市大谷記念美術館は元昭和電極社長の故大谷竹次郎氏が集めた近代絵画など1千点を所蔵する。午前10時〜午後5時、水曜休館。