
手入れされた道具が整然と並ぶ竹中大工道具館=神戸市中央区で
それが何であれ、あることがらについて考えようとすれば、道はふたつある。ひとつは、なぜそれをそのような名で呼んできたのか、あとひとつは、それが何であるのか。差し当たって、これらふたつの問いが待っている。
さて、ここでの話題は大工道具であるから、まずはなぜそれが「大工・道具」と呼ばれてきたのかを考えることにしよう。「大」と「道」がすぐに気になる。「大」の字は古代の官職に由来し、やがて大工は木造建築の技術者を指す言葉になった。とてつもなく古い職業である。一方の「道」は仏教の法具に通じ、道具という言葉にはどことなく神秘的な感じが漂う。
そりゃそうだ。建築の歴史は人類が洞穴を出た時から始まり、人の住処(すみか)ばかりでなく、神仏の住処もまた連綿と建てられてきた。それを作り出すための、いわば無から有を生み出す道具に力が宿らないはずがない。だから大工は道具を神聖視し、手入れを怠らず、大切に扱ってきた。よい道具ほど摩滅するまで使われ、あとに残らないという。
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大工道具はその役割に応じて、さらに、斧(おの)、鋸(のこぎり)、鉋(かんな)、鑿(のみ)、錐(きり)、槌(つち)、墨壺(すみつぼ)、曲尺(さしがね)などの名を持つ。ひたすら木と向かい、木と取り組み、木を手なずけるために進化してきた。木をねじ伏せるという性格の道具ではない。戦前の調査によれば、大工は、ひとりで179点もの道具を所持していたという。
こうした大工道具を通して、この国で、どのように建物が建てられてきたかを振り返ることができる。
技術の歴史というよりは、文化が明らかになるはずだ。建築とは、単に建物を建てる行為ではなく、社会の建設とほぼ等しいからだ。
しかし、近代以降、建築の事情はがらりと変わった。建材には、木材ばかりでなく、れんが、石、鉄、コンクリート、ガラス、プラスチックなどが使われるようになり、電動工具が登場した。現代ではなおそうで、住宅の建設工事は、まるで大きなプラモデルを組み立てているようだ。
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実は、冒頭のふたつの問いは表裏一体である。現物がなくなれば名前もまた失われる。逆に、名前が忘れられれば、現物は見向きもされなくなる。その両者を守ることが肝心だろう。
古来今日にいたる建築文化を知ろうとするならば、大工道具の実物を集めて残し、後世に伝えることが欠かせないのである。それらが死蔵されずに、公開されることの意義は大きい。それを可能にする博物館の実現が一企業の手に成ったことに、心からの敬意を表したい。
(文・木下直之<東大教授> 写真・小笠原圭彦)
○研ぎ澄まされた心意気
1610年創業という建築業界の老舗(しにせ)・竹中工務店が企業博物館「竹中大工道具館」を開いたのは、バブル景気前夜の84年。世界に誇る木造建築を支えた大工道具を通じ、大工や道具鍛冶(かじ)の心を後世に伝えるためだった。
全国の大工や関係者から名品を買い取り、寄贈を受け、2万5千点も収蔵する。赤尾建蔵館長は「収集、模型製作とかなりの費用です。あのころだからできたのかもしれませんね」と苦笑する。
装飾彫刻も手がけた大工たちが、練習を兼ねて鶴亀や富士、コイなどの意匠を彫り込んだ、直線を引く道具の墨壺。大正時代、大阪・靱公園あたりの大工「江戸熊」が、東京の名匠に一般品の30倍の金額で作ってもらった鑿。館内には職人の心意気が並ぶ。
展示品は手入れ済みだが、ある時「ここの研ぎへたやなあ」という大工らしき来館者の声が職員の耳に入った。館は急きょ「名人」に依頼し研ぎ直した。素人目にはわからない細部にも気をかける、それは博物館の心意気だ。同館(078・242・0216)は月曜休み。大人300円、大高生200円、小中生100円。(松尾由紀)
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