ヤナにかかった鮎=滋賀県高島市の安曇川
鮎のなれずし=滋賀県長浜市
平安の昔から京都の夏は蒸し暑かったらしい。涼しさを得るため貴族たちは水飯(すいはん)を召している。光源氏も飯に氷水(ひみず)をかけ、すし鮎(あゆ)を菜にさわさわとすすり食いをしている。
すし鮎は、塩じめにした鮎を飯に漬けて乳酸発酵させたなれずしである。室町時代に飯も共に食べる半なれずしが生まれる。これは今も南紀熊野川筋で作られている。
『源氏物語』によると源氏が釣殿で涼んでいるとき、桂川でとった鮎が御前で調理され、源氏が取りまき連中と食べている。
その当時の文献によると、調理の第一等は「割レ鮮(あらたしきをさく)(「レ」はレ点)」、つまり刺し身。次いで塩焼きである。室町のころになると、初夏の若鮎は骨が軟らかいから頭から、盛夏の鮎は藻をはんで香が高いから腹から、秋の落ち鮎は骨が硬いから身のみを食べた。
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鮎は友釣りや鵜飼(うか)い、ヤナ(梁)と呼ぶ仕掛けで取る。秋の落ち鮎で作る美肴(びこう)は、うるか。その種類は五つあり、真子(まこ)(卵)を塩辛にすると子うるか。白子(精巣)だと白うるか。腸(わた)だと苦(にが)うるか。真子と白子、腸を合わせると交(まぜ)うるか。これに刻んだ身を加えると切りうるかである。
真子や白子、腸を取った後の鮎は素焼きにして乾燥させ火干(ひぼかし)(火乾)と呼び、煮物やだしの材料として用いた。
滋賀県の琵琶湖の名物に氷魚(ひお)がある。氷魚とは鮎の幼魚で氷のごとく透明。奈良時代から有名で、琵琶湖から宇治川に流出した氷魚を網代で捕らえ、吉野川に移したことは万葉集に見える。平安朝になると旧暦9月から12月30日まで宮廷に貢いでいる。今ごろの若鮎は塩煮にしている。いわゆる釜上(かまあげ)である。
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昭和の戦前までは、関西の各地の河川には初夏になると若鮎が銀鱗(ぎんりん)をひるがえしながら群をなして遡上(そじょう)し、川床を埋め尽くしたという。今はその面影はない。新しいダムやせきの建設、河川沿いにできた工場や家庭からの排水あるいは農薬で汚染され、鮎の生育の環境が悪くなったからである。その結果、天然鮎はめっきり少なくなった。
鮎は通常、幼期を海で過ごす。かつては琵琶湖の鮎も大阪湾から淀川を遡上(そじょう)したようだ。しかし現在の、海に出ずに琵琶湖で一生を終える陸封(りくふう)鮎は、川の藻の代わりに琵琶湖の動物性プランクトンやミジンコを食べ、大きく成長することはない。
琵琶湖で生まれ育った稚鮎を取り、それは鮎苗と呼ばれて各地の河川に放流され天然鮎として成長する。一方、鮎苗を人工養殖した半天然鮎もある。いずれも、各地の鮎漁や鮎食を支えている。
(文・奥村彪生<伝承料理研究家> 写真・中田英博)
○天然育ち・強い闘争心
琵琶湖西岸にある安曇川の河口付近では、約100メートルの川幅いっぱいに、鮎の遡上を遮るヤナが仕掛けられていた。鮎がヤナに沿って岸に導かれるようにできており、両端にある幅12センチのカットリ口(取水口)から水路へ、体長8センチほどの稚鮎が面白いように流れ込んでくる。北船木漁協組合長の駒井順一さん(73)の話では、昔はヤナでせき止めた鮎を、小船に乗って網で取っていたそうだ。
琵琶湖東岸の姉川にも行ってみた。ここのヤナは、岸から10メートルほどのあたりに縦横1メートルほどの四角いかごが一つ取り付けられ、そこに鮎が集まる仕掛けになっていた。すぐ満杯になり、30分おきに引き揚げているという。南浜漁協の吉田儀一さん(61)は「天然なので気性が荒いよ」。
琵琶湖産の稚鮎は鮎苗と呼ばれ、全国の川への放流用に出荷されてきた。滋賀県水産課によると、琵琶湖の鮎は縄張り意識と闘争心が強いため、渓流での友釣りに向いているという。自分の縄張りに入ってきた鮎に食いつきやすいからだ。だが、冷水病という感染症の影響や各地での人工生産の増加を受け、漁獲量は87年度の812トンから06年度は122トンに減った。
姉川近くの「鮎茶屋かわせ」で初めてなれずしを食べた。思ったほど臭くなく、しめさばに似た酸味と食感。勤務中でお酒が飲めないのが残念だった。(吉川一樹)
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