青木間歩の内部を見学する南海さん=いずれも兵庫県猪名川町
埋蔵金探しに挑んできた鈴木盛司さん。秘密の間歩に案内してくれた
埋蔵金! なんて響きが良いのだろう。宝くじなんて目じゃないぜ。国家予算を上回る規模の埋蔵金が関西に埋まっているかも、という話をご存じだろうか。
時は安土桃山時代の末期。資料や伝承によれば、天下を統一した豊臣秀吉は、その死の直前、息子秀頼の行く末を案じ、大坂城内にあった4億5千万両を極秘裏に今の兵庫県猪名川町かいわいの多田銀銅山へ運び、間歩(まぶ)(坑道)21カ所に埋めて山を閉じたという。
指揮は勘定奉行幡野三郎ら三人のみが任され、場所の詳細は文書と絵地図に記され大切に保管されたそうな。そして大坂の陣。豊臣方は敗れ、多田銀銅山も徳川幕府の手に落ちた。幕府は必死に埋蔵金を探すが見つからなかった。文書と絵地図は、幡野らの没後、伊賀の亀井家の蔵に厳重保管されていたそうだが、時流れて第2次大戦後、混乱の中で散逸したという。
そして、埋蔵金伝説は世間に広く知られる所となった。一獲千金を狙う者たちが文書や絵地図の一部を手に入れたと言っては続々と多田銀銅山を訪れた。しかし、埋蔵金はカケラも見つからないまま、結局みんな去っていった。
と思ったら、どっこい残った男が1人いた。多田銀銅山研究家、鈴木盛司氏(74)だ。三十数年前、浜松市からやってきたのだそうで今も地元に住んでおられる。埋蔵金を巡る著書もある。
歴史探偵南海は先日、鈴木氏を訪ねた。赤銅色のお顔に優しく澄んだ目、飄々(ひょうひょう)としたお姿。驚いたのがご自宅だ。中も外も鉱物だらけで、学者の書斎かと思うほど蔵書であふれている。
体調を崩され、最近は現場に行っておられなかったが、この日は山の奥まで案内してくれた。鈴木氏は言う。「間歩の中、ひとりでも寂しくない」。電話もラジオもない暗闇で、どこからか吹き込んでくる風の音を友とし、穴の中で過酷な労働で命を落とした人々に思いをはせる。実際に幽霊も見たのだそうだ。
歴史探偵南海は想像する。鈴木氏の目は、初めは一獲千金の野望に満ちていたに違いない。でも、狭く暗い間歩で歴史から消された財宝と人たちの断末魔の叫びを聞くうち、探索できること自体が喜びになっておられるのではないかと。
鈴木氏は埋蔵金は「必ずある」と確信しておられる。株が暴落して右往左往している私たちには、鈴木氏の壮大なロマンをどうこう言う資格はありませんぞ。
(文・旭堂南海〈講談師〉 写真・熊谷武二)
○豊かな鉱脈のことだった?
兵庫県史や猪名川町教委によると、多田銀銅山は同町銀山地区を中心に、兵庫県と大阪府の7市町、十数キロ四方に鉱区が広がる。73年に閉山、今は静かな山だ。東大寺の大仏鋳造に銅を献上した伝承があり、天正年間(16世紀後半)に豊臣氏の直轄鉱山として栄え、寛文年間(17世紀後半)には年約450トンの銅を産出した記録がある。昭和期に掘られた「青木間歩」の坑内約50メートル、秀吉ゆかりの「台所間歩」「瓢箪(ひょうたん)間歩」の坑口は見学できる。同町教委は江戸期の代官所跡を00年度から約6年間かけて調査し、建物跡や陶器、瓦などを発掘。現在も地区一帯を調べている。07年4月には紹介施設「多田銀銅山 悠久の館」を開館した。
渡辺武・元大阪城天守閣館長は「埋蔵金は未採掘の豊かな鉱脈のことだと思う。取り尽くしたと見るべきでしょう」と語る。町教委には時折問い合わせがあるが、一帯は今、埋蔵文化財包蔵地で、埋蔵金を発掘することはできない。また、周囲には間歩が約100カ所掘られており、むやみな散策は落ちる恐れがあり、控えたほうがいい。(高橋真紀子)
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