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2008-謹賀新年
新春メッセージ
会員消息伝言板
中之島から
事務局から

中国・韓国に招かれる
京都ヘルメス研究所長、京都大学名誉教授の山中康裕さんから

 今回、中国江蘇省の蘇州大学から招かれた。そこで第1回国際表現療法学会(中国首届国際表達性心理治療検討会)を催すとのことで、その基調講演をする羽目になった。すると更に上海から、上海交通大学医学部精神衛生中心(精神衛生センター)からもお招きがかかり、結局10日間中国に滞在した。私は学会での基調講演も、上海での2つの講演もお引き受けしたが、当然のことながら、現在進行中のカワンセラー活動の一環としての長江(揚子江)−蘇州河の探索もプランの中に盛り込んで勇躍渡航した。

 学会は、16カ国および中国全土から約400名近くの参加があり、大成功裏に終わり、私たちは現地の雑誌社などの取材も受けた。その際、かねてより汚染が問題となっている蘇州河を視察したが、上海市は、この問題に真剣に真っ向から取り組み、2段階に分けて汚水処理工事に邁進しており、上海市城市排水有限公司の技術設計研究所副所長白海梅氏に伺ったところでは、2段階の工事は今年すでに完了し、次の第3段階目のCOD、BOD調節部門などの実践活動にゆだねたところである、とのことだった。
蘇州市山糖街水路、漢詩も筆者作

 事実、筆者が視察した限り、河水の汚染は目に見えて浄化されてきており、早晩、魚群の復活も可能となる段階にきていると見た。無論、いわゆるどす黒い色や悪臭などはすでになく、蘇州河本来の色調を取り戻した段階にはきていると見た。むしろ、蘇州河が黄浦江に合流する地点で、黄浦江の泥の濁流に比し、寧ろ美しいと見えるまでになったことをこそ喜びたい。

 学会冒頭で、当初予期していなかった「嘉賓講話」をせよと、豪、米、欧などの来賓を差し置いて代表挨拶を述べることとなったが、その際、その前日に訪ねた寒山寺と蘇州市城内の運河を船で廻った感想を含めて、「この蘇州は、この50年憧れ続けた夢の地でした」と感慨を素直に表現し、かつ、その際の墨絵のスケッチ(挿図)と即席の漢詩を開いて見せたところ、期せずして満場の喝采を浴びたのだった。蘇州市を船で巡ったときに案内してくれた現地大学院生から、2004年に蘇州市で世界遺産会議をもったときに合わせて、この地の景観を一気に緑化した経緯を聞いて驚いた。もともと白い漆喰に黒い瓦の蘇州独特の歴史的景観地区はそのまま残し、近代以降ごみごみと建て込んだ民家地域を一掃したというのだ。
蘇州市郊外寒山寺、詩は唐の張継
「楓橋夜泊」ペン墨画は筆者

 確かに今では、蘇州市内を流れるクリークの沿岸は、歴史的景観と、緑の柳の植え込みが実に美しかった。こんな大胆な施策が可能なのは、中国が共産主義社会で、土地は全部市政府のものだからと案内の院生に聞いて納得した。しかし資本主義国でも、韓国ソウル市の漢江での河川の蘇りが立派に可能であったように、我が国でも、市民の広範な支持が得られればやはり可能な筈で、このような100年後を見据えた河川政策こそが望まれるところなのである。そうした意味では、「世界遺産」指定というユネスコの試みも、こういう利用の仕方をすれば、環境保全に生かすことが可能だと思ったことであった。

 そして、この秋、韓国から、思わぬ朗報が届いた。韓国箱庭療法学会から、11月の学会での特別講演の依頼と、韓国学会の海外特別最高顧問への就任を依頼してきたのである。本来、私は国内ではこれらの仕事を引退し、後進に譲る方向で動いてきたが、韓国や中国では、こんな私を必要としてくれるわけで、世界全体のこれらの学問分野でのレヴェルをあげていくことには異存はなく、今しばらくお役に立つなら、と腰をあげたのだった。

『アートの舞台裏へ』を刊行
文化ジャーナリストの白鳥正夫さんから

 「スポーツは体の足しになるように、芸術は心の足しになります」とは、美術界の重鎮、木村重信・民族藝術学会会長の言葉です。そうした木村会長との対談で始まる『アートの舞台裏へ』(梧桐書院)を出しました。

 朝日新聞記者だった私は2004年夏、定年退職しましたが、最後の10年余は企画セクションに所属していました。主に展覧会企画の仕事で、定年後もアートに関わる仕事を続けています。執筆は、これから長い老後を迎える団塊の世代への参考書に、若い世代にも鑑賞のあり方についての入門書になればとの思いを託してのものです。

 当然ながら美術史家のように薀蓄も無ければ、学芸員のような専門知識もありません。その時折の話題を追い、自分の体験を織り交ぜ書いた、あくまでも現場からの報告です。「とっておきの鑑賞パスポート」との長いサブタイトルが付いていますが、アートの世界を長年、内と外から見てきた経験を踏まえ、鑑賞者の視点で捉えたつもりです。

 日本では、これまでアートは送り手側の一方通行になりがちでした。これからは受け手側の積極的な意思と行動が必要です。送り手側の試みに呼応して、できるだけ鑑賞前に情報を入手し、美術を主体的に受け止めることが必要です。本書がその一助になればと願っています。

 定価1800円(税込み)。全国の書店または次のウエブでお買い求め下さい。
    http://21st.c-art-city.com ▲

関西経済人の高い志と地域発展への強い思い
財団法人太平洋人材交流センター専務理事・事務局長の藤田賢次さんから

 (財)太平洋人材交流センター(PREX)は、設立して18年目を迎えます。昨年までの研修参加者は、1万1千人を超えました。研修参加者はここ数年毎年増加し、平成18年度は過去最高の1,314名となっています。研修(写真)を通じて、途上国の発展の核となるような使命感と気概を持った人材との人的ネットワークを着実に拡大してきております。

 また優れた経営を実践している関西の大企業から、中堅・中小企業や、関西の特色、魅力ある文化・観光スポットの紹介、日本、日本人に対する正しい理解と信頼感の醸成などについても、少なからず寄与できているのではないかと思っております。

 本年は、PREXの事業のあり方を世界の状況変化を踏まえて見直し、前進させるための新たなビジョンと中期アクションプランを策定し、新たな活動を開始する所存です。

 ビジョンづくりにあたり、PREXの活動の原点と位置づけております、PREXの設立に関与された先輩経済人の高い志と地域発展への熱い思いを関西スクエア会員の皆様にもご紹介します。

 PREXは、1990年4月、大阪に設立されました。

 事業目的は、主としてアジア・太平洋地域の開発途上国の発展を促進するための人材育成に協力することであります。「開発途上国に対する経済協力は、国際社会における名誉ある一員として果たすべきわが国の重要な責務である…。特に技術協力の分野においては、政府の演じる役割とは別に、民間部門の果たす役割も重要になっている…。こうした背景のもとに、民間団体としての柔軟性を生かしつつ、政府関係機関はもちろんのこと、民間企業、地方自治体、国際協力諸団体との協力、連携を図りつつ、開発途上国の経済、社会の発展、とりわけ太平洋諸国の発展に貢献することを目的とする財団法人太平洋人材交流センターを設立する」と設立趣意書で表明しています。志は高い。

 もうひとつの目的は、人材育成に協力する活動を通じて、関西の国際的人的交流を活発化し、国際的人的ネットワークの構築に努め、関西をアジア・太平洋地域諸国に開かれた、特色ある世界都市に発展させることです。地域発展への強い思いもあります。

 設立のきっかけとなったのは、1984年、関西経済同友会がアジア・太平洋諸国に派遣した「太平洋ミッション」の報告書で提言した「今後のわが国の国際協力の重点を人材養成におくべきであり、その実施機関として経営と技術の交流センターを大阪に設立する構想」です。本構想は訪問各国で強い支持を得ました。

 その後、関西を、アジア・太平洋諸国との交流促進のためのわが国を代表する拠点とすべきだとの機運が盛り上がり、1988年に関西を挙げて太平洋経済会議(PECC)日本総会を大阪に誘致しました。総会最終日の関西セッションの場で、当時の宇野収関経連会長が関西の産・官・学を代表として、大阪にアジア・太平洋地域諸国の人づくり協力のための組織を設立することを表明し、総会は成功裏に終了しました。

 この大会の成功を契機に、太平洋経済展望(PEO)日本委員会の大阪誘致、そしてPREX設立に向けての具体的準備が始まりました。PREXの30億円超の財団基金の80%は関西の民間企業から寄付された浄財です。

 爾来、17年間、所定の業績を遂行できているのは、関係各方面の温かいご理解とご支援があってのことです。なかでも設立以来、延べ67名の出向者を手弁当で派遣いただいている関西の主要企業のご支援、また研修実施の際に、見学・訪問を快く受け入れていただく各企業、経済団体、行政機関などのご協力なくしてはなし得ない事業であります。

 PREXが設立された当時と現在では、取り巻く環境は様変わりし、厳しくなってきています。しかし、今の時代のわれわれが失ってはならないのは、PREXの設立と運営に関与された先輩経済人の持っている高い志と地域発展への強い思いではないでしょうか。

十二支シリーズ第2弾刊行へ
上方文化評論家の福井栄一さんから

 会報の原稿締め切りである2007年12月5日現在でも詳細が決まっていないので非常にもどかしいのですが、同月中に、2008年の干支であるネズミにちなんだ拙著『大山鳴動してネズミ100匹』(仮題)(技報堂出版)を刊行します。

 先に刊行した『イノシシは転ばない』(技報堂出版)に続く、十二支シリーズの第2弾です。ネズミ年の念頭にあたって、ご購読賜りますれば、幸いです。

「古希」は通過点の一つ
かもがわ出版取締役常勤顧問の湯浅俊彦さんから

 今年、70歳を迎え「古希のつどい」を開いていただいた。よびかけ人の加藤周一さんをはじめとする温かいスピーチに感激した。いま、本業を減らし、ボランティア活動で忙しい毎日だ。

 とくに力を入れているのが「京都の民主運動史を語る会」の活動。同会は「1900年代における京都地方を中心とする平和と民主主義運動を調査し、その発展に寄与する」ことを目的に1980年2月に住谷悦治(元同志社総長)、木村京太郎(部落問題研究所)、細井友晋(立本寺管長)氏らのよびかけで発足した。ゲストを招き例会を開くとともに、会報「燎原」を隔月発行、戦前・戦後の労働運動・学生運動・政治活動に関わった人の証言を掲載している。この1月で174号を迎える同誌は貴重な歴史の記録として各界から注目されている。

 私は、高校生時代から左翼運動に参加、就職後は労働運動、のち週刊「京都民報」で20年、退職後かもがわ出版で21年という編集者人生を歩んできた。代表の岩井忠熊氏(立命館大学名誉教授)の下で、「燎原」誌の編集や、資料の整理にあたっているのは、お世話になった皆さんへのご恩返しである。

 米寿を迎えられた加藤周一さんは「9条の会」の講演を続ける一方、1月に新刊『加藤周一講演集』第6巻も、かもがわ出版から出される。古希なんて通過点の一つ、まだまだ頑張らねば、と思っている。

さまよう日本の政治に思う
マンガ家・京都精華大学非常勤講師のチョン インキョンさんから

 大学というところはもっとも先鋭的なところであり、思想的にも自由な場所であると思う。世の中、とくに政治や社会に対する疑問をぶつけ、議論し合うべきところである筈だ。そういった経験を経て、それぞれの思想や価値観が成立するのである。

 1997年日本の大学に入ったとき、大学生を見て思ったのは、幼いということであった。それは当然韓国の大学生と比べてということだが、とくに普段の会話の中で政治に関する話題がほとんどないのには驚いたものだ。その割に性に関しては、まるで西洋のような「開放的」な考えを持っているようで、同じ東洋人として受け入れられないほどであった。肉体と精神年齢のアンバランスと言うべきなのだろうか。

 日本の多くの若者に見られるこの憂慮すべき傾向には、幾つかの原因があると考えられる。一番大きな原因は歴史の断絶から来ていると思われる。私から見ると、彼らはまるで生まれたばかりの赤子のようである。それは一見要らないと思われている情報を教わっていないからであろう。その情報とはもちろん戦前の日本や当時日本に翻弄されたアジアの実態である。如何にして今の日本があり、この豊かとも言える日常生活が存在するのか。その答えは言うまでもなく、日本の敗戦そして戦後の反省に基づいて出発したからであろう。それを知らないということは、自分のルーツを知らないのと同じである。つまりそれぞれのアイデンティティーの不在とも言えよう。バカバカしい「自分探し」が流行っているのはそのためなのだろうか。

 もうひとつの原因は、ともすると若者とは関係なさそうな日本の政治体制にあるのかもしれない。傍から見れば「一党独裁」に限りなく近い、もっとも発達した資本主義国家なのだ。戦後、政権を執ってきたのはほとんど自民党である。そのような環境の中、政治を代々職業とする人たちが生まれた。まるで京都の老舗や伝統芸能の家系のようである。日本人はそもそも代々同じ職業に従事することが当たり前で、誇らしいことだと思っている。もしその伝統を現代の政治家にも当てはめ、世襲政治に対して何の疑問も感じない人がいれば、その人の見識は疑われざるを得ないだろう。果たして世襲政治家が優れているのだろうか。その答えは安倍晋三氏がすでに身をもって出している。

 長期間に渡って同じ政党が政権を持ち続けてきた国で、国家の喜怒哀楽をその政党と共に見てきた多くの国民は、この政党でないと自分の国はだめになるという錯覚に陥る。元々劇的な変化を嫌う国民の穏やかな気質も相俟って、冒険はしたくないという気持ちで、大体の人たちが選挙の度、同じ党に票を入れてしまうのである。その結果、政府に対する批判能力は徐々に鈍くなり、政府や世間の動向より個々の暮らしや趣味に、興味が集中するようになる。そういう親のもとで生まれた子供は、さらに思考の半径が狭くなるのだろう。オタクや引きこもりの若者の増加には、そういう背景があるかも知れない。

 美術系の大学生たちの作品を観ても、彼らの思考の半径が感じられるある注目すべき傾向がある。各々のジャンルとは関係なく、必ず「自分の家的なもの」を作る学生がいるのだ。材料はその分野によって様々だが、例えば広さは半径約1メートルで人の背丈位の高さの小さい家を創るのである。ときにはその中で友達としゃべったりするパフォーマンスも行う。つまり、彼らは自分の居場所や自分と他人との境界を、小さい家を通じて表している。別に見る人が入れる訳でもない、自分の居心地の良い世界を具現化しただけの作品なのである。

 確かに戦後の日本は自民党政権の下、目覚しい成長を遂げた。しかし、それは自民党が与党だったからだけではなく、日本人それぞれが元々持っていた能力を、戦争ではなく経済や科学などの様々な方面で発揮できるようになったからではなかろうか。そして、他のアジアの国々が鎖国政策をとっていた頃、いち早く西洋文明を受け入れ、自国の文化にうまく折衷してきたという土台があったからであろう。

 ほとんど「一党独裁」の体制の下、多くの日本人が陥っている錯覚は、政府やマスコミによってもたらされたものだとも言えよう。それは皇室の子供を、赤ん坊の頃から頻繁に映して、国民にまるで自分が育てているかのような幻想を抱かせるというマスコミの手法に代表される。

 そういった錯覚から目覚めたとき日本は、真の意味で国際社会から尊敬される国になれるかも知れない。いつも日本を最大のライバルと見ているわが韓国にとっては、あまり望ましくないことだが…。しかしながら昨今の日本の政界の混乱ぶりは一体何なのだろう。国民と遊離された日本の政界は、学生たちの「家的なもの」を思わせてしまう。その中から、自分たちの代表者を選ばなければならない日本の国民を、気の毒に思うのは私だけなのだろうか。

元従軍慰安婦たちの「水曜集会」と「ウトロ地区」のこと
(社)奈良まちづくりセンター副理事長の黒田睦子さんから

 10月22日から3日間、ソウルで日本居住福祉学会、中国不動産住宅研究会、韓国住居環境学会共催による、「第7回 日中韓居住問題国際会議」に参加した。

 会議開催中、元従軍慰安婦たちの「ナヌムの家」のハルモニたちが日本大使館前での「水曜集会」(写真)を開くとの情報に馳せ参じる。毎週水曜日の集会は既に700回を超え、実に10年の歳月が経過する。日本大使館は堅く門を閉ざし、警官が大使館の周囲を警護している。人間の尊厳を踏みにじられたハルモニたちの名誉はいつ回復されるのだろうか。

 京都府宇治市の在日韓国・朝鮮人の集落、ウトロは土地の所有者から強制退去を迫られていた。日本居住福祉学会は「居住は人権である」の理念により過去2度、現地で集会を開いてきた。3年前、韓国での「第4回 日中韓居住問題国際会議」でウトロ住民4人が現状報告後、韓国の国会議員や研究者がウトロへ調査に訪れ、韓国内の市民団体による街頭募金に約6千万円が寄せられた。今回のソウル国際会議の直前の10月7日、所有者が土地の半分を住民へ5億円で売却という衝撃的なニュースが飛び込んだ。続いて韓国政府が4億円を支援との朗報である。一市民から4千万円の寄付も届き、一挙に解決に向けて道は開かれた。やっと重い腰をあげた国土交通省、京都府、宇治市は問題解決へ向けて検討会を設けるとの報道に安堵の思いである。

4年ぶりの書き下ろし長編、『お家さん』(新潮社)
上下2巻、早々と増刷決定!

作家の玉岡かおるさんから

 テーマは、大正から昭和の初め日本一の年商を上げ、ヨーロッパで一番名の知れた巨大商社・鈴木商店の女総帥、鈴木よねの一代記。もちろん、ありきたりな評伝ではなく、女流小説家としての腕をとことんふるい、読み出したら止まらない物語に仕上げました。渾身の1200枚です。

 さてその鈴木商店。扱う品は砂糖や小麦、樟脳、繊維からゴムなど工業原料、石油などエネルギー、鉄鋼から船舶にいたる重工業製品まで、何もかも。最後には関連会社50社、社員5000人を擁した巨船の頂点に座した商社ですが、昭和2年、金融恐慌のあおりを受けて倒産、歴史の波間に消えました。その全責任を一身で受け止めたのが、鈴木よねという一人の女性でした。

 よねは神戸の砂糖商店鈴木岩治郎へ嫁ぐが、主人が急逝、残された小さな店を番頭の金子直吉を中心に女だてらに存続させます。男でも難しい商売を、女の身でどうするのか。妻ではない、奥さんでもない、といってもちろん店員たちの将ではない。大阪の商売人の家には、「お家はん」という、みごとな伝統があります。商売は女で持つもの、動かすもの。なぜなら、家こそが、働く男たちが依るべき場所そのものであり、またそのため彼らが守るべきものだからです。具体的には動かず働かず、ただ軒の庇を彼らのために拡げてその容量の深さ大きさを用意してやる「お家さん」という存在として、よねは店ののれんを守ります。

 儲けることだけを考えたのではなく、ここで働く者たちのため、民のため、お国のために商売をする、という考えで、日清戦争を機に商いを拡げ、台湾へ、そして遂にはロンドン、ニューヨークへ。米騒動による鈴木商店焼き討ちを経て、世界大戦をも乗り越えたのは、番頭金子の大胆な商法もありましたが、日々の営みをおろそかにせず、店員たちを見守るよねの存在が何より大きかったことは否めません。彼女がその手で育て、守り抜いたものは一体何だったのでしょう?「名番頭が率いた戦争成金会社」と云われてきた鈴木商店を、女主人の視点から物語性豊かに描いた大河小説です。

 現代の日本人は、彼らの魂から、多くを学ぶことができるはずです。大増刷に向け、さらに躍進中。ぜひ応援ください。  ▲

市民活動10周年を迎えて
えひめグローバルネットワーク代表の竹内よし子さんから

 21世紀、「官から民へ」というキーワードでさまざまな市民活動が展開されている。

 えひめグローバルネットワークは、1998年4月に「国際協力勉強会」として発足して以来、今年10年目を迎える。ちょうど、関西スクエアと同じ月日を過ごしてきたのだと思うと感慨深い。そこに、国際交流基金から「2007年度地球市民賞」受賞の知らせが入った。愛媛県では初受賞となる。「嬉しい!」と素直に喜ぶと同時に、発足当時から関わってきた学生・主婦・市職員など市民の顔が次々と思い浮かんだ。

 私たちは、モザンビークで銃との交換物資として松山市の放置自転車を送り、足元にある先進国の抱える大量生産・消費という現状と、海外の途上国が抱える貧困を克服するという課題の両面から重なる未来を見つめてきた。「市民参加型の国際協力」という目標を掲げて、子どもも大人も、障がいを持つ人も外国籍の人もみんな一緒に活動してきたが、だんだんわかってきたことが「市民参加」の本当の意味である。世の中に「市民」でない人はいないが、そこに「主体性」を自覚・認識しているかいないかで「行動」に大きな違いを生み出す。参加している内に、個々に「市民=一個の人間」としての主体性が生まれ、意識が変わってくる。

 地球市民として…つまり、人として、地球一個分のことを考えて行動につなぐことが、理屈を超えてストンとわかるようになるための「学びある行動」。市民活動の中にこのヒントやきっかけがたくさん転がっているのである。そして、この学びと行動のサイクルが、持続可能な社会のあり方への道を示してくれるだろう。

 松山市から、今年度新設した「市民活動推進事業表彰」も頂いた。私たちにとって大きな励みとなる評価を二つも頂き「市民活動が地域で財産化するよう頑張りたい」と思う。

「地球に謙虚に」運動が本になりました
「地球に謙虚に」運動代表の仲津英治さんから

 平成14年(2002)夏より、取組んできました「地球に謙虚に」運動(「地球にやさしく」という人間の傲慢さを感じさせる言葉を、「地球に謙虚に」という表現に変える運動)が、5年経過しました。呼びかけ人やご賛同者のエッセーならびに代表発信などを掲載し続けて参りました。ホームページへのアクセス数は、第1段階のものも含め、22,000回にもなります。このたび今年5年目という節目に、これらをまとめて「地球に謙虚に」エッセー集として、有志の皆様方の協力で、自費出版することにしました。

 昨今相当に真剣な論議、対策がなされるようになって参りました、地球環境問題への取り組みに関し、この300頁に上るエッセー集は意義のある質の高い警鐘、提言となることを期待しております。ぜひご購入の上、ご一読いただければ幸甚です。

 インターネットによるご注文となります。極少数の限定出版です。下記ホームページより、早めにお申し込み下さい。
 編集;環境NPO「地球に謙虚に」運動呼びかけ人有志
 監修;環境NPO「地球に謙虚に」運動代表 仲津 英治
 出版社 三恵社<http://www.sankeisha.com/bookstore/detail.php?ID=20071012120629>
 価格:税込み ¥1,050
 送料が別途掛かりますので、ご承知おきください。
 「地球に謙虚に」運動ホームページ <http://www5f.biglobe.ne.jp/~kenkyoni/>
 

国連人権理事会に参加して
国際関係学博士、龍谷大学法科大学院教授の戸塚悦朗さんから

 7月20日から2ヶ月間のジュネーブ出張の目的は、NGO人権実務活動実践の立場からの国連人権理事会の研究でした。国連「改革」をよいことに、人権侵害で批判されていた多数の国家が協力し合って、これまで確立されていた国連憲章上の人権擁護手続を骨抜きにしてしまうのではないかと心配してジュネーブまで実態を確かめに行ったのです。

 経済社会理事会との協議資格を持つ国連NGOである日本友和会(JFOR)のジュネーブ国連首席代表としてバッジの発行を受けていますので、国連欧州本部(写真。9月16日筆者撮影)には常時立ち入りが可能で、人権理事会の会議にも参加することができました。

 国連改革の焦点の一つである人権理事会制度構築の期限だった今年6月18日の深夜に議長が提案した決議案が採択され、人権理事会決議5/1「国連人権理事会の制度構築」となりました。

 制度構築決議は、英文で34頁あります。その構成は、(1)普遍的定期的審査機構、(2)特別手続、(3)人権理事会諮問委員会、(4)苦情申立手続、(5)議題及び活動計画のための枠組、(6)活動の方法、(7)手続規則と7部に分かれています。その全訳と関連論文は、年内に出版予定です。前者は、「【資料】国連人権理事会の制度構築決議―2007年6月18日付国連人権理事会決議5/1「国連人権理事会の制度構築」【全訳】」として『龍谷法学』(40巻3号)に、後者は、「国連人権理事会制度構築―NGOの視点から」として『法律時報』(12月号)にそれぞれ掲載されます。この場をお借りして、紹介させていただきます。

 筆者は、1984年から継続的に国連NGO人権活動実務に携わってきました。いつも手探りで活動を継続してきた経験から言いますと、今回の国連人権理事会の制度構築の場合も同じで、実際に試してみないと判断できないのです。NGOバッジの受領手続も、実際に現場で試してみて、昨年までの人権委員会・人権小委員会当時と同様でした。NGO代表としての国連構内への立ち入りも、文書へのアクセスも可能であることを確認できました。発言時間は短くなり不便はありましたが、以前同様可能でした。「これなら新制度の下でも何とかなりそうだ」という感想を持ちました。

 国連憲章に基づく人権擁護機構は、「人権理事会」という名前で総会委員会に格上げされ、手続も装いを新たに出発しました。おおよそこれまでの諸制度を維持したほか、以下のような発展もあります。

 国連人権理事会は、専門家の選任過程を改革して、国連人権理事会の特別手続の権限保持者候補の推薦の権限をNGOにも与えました。

 国連人権理事会による新制度「普遍的定期的審査」(UPR)制度が動き出したことは注目できます。UPRは、2008年から開始されることになり、政府報告書審査の順がくじ引きで決定されました。日本政府報告書のUPRによる初審査は、2008年5月5日から2週間にわたって開催される2回目のUPR作業部会でなされることに決まりました。

 NGOは、国連に情報を提供し、新設のUPRへの貢献もできます。NGOは、新制度を早急に学び、国連の憲章上の人権手続を有効に活用し、これに貢献することが期待されています。

北京電影学院で講義をしました!
弁護士で映画評論家の坂和章平さんから

 私は昔から中国の歴史が大好きでしたが、中国の留学生の学ぶ姿勢に触れたり、中国映画を観て勉強する中で、ますます中国の魅力にはまっていきました。そして2000年8月に中国の大連・旅順・瀋陽を旅行して以降、西安・敦煌(01年8月)、北京(03年11月)、杭州・紹興・烏鎮(04年3月)、桂林・深せん、広州(04年6月、西双版納(シーサンパンナ)・昆明・麗江・大理(04年11月)、曲阜・泰山・済南・青島(05年10月)、上海・杭州・烏鎮・無錫・鎮江・揚州・蘇州・周庄(06年3月)に行きました。

 そして07年は10月7日から11日まで北京に行きましたが、今回はいつもの観光目的の旅行とは違って、映画評論家としてのお仕事(?)がメーンでした。

 中国には張藝謀(チャン・イーモウ)監督や陳凱歌(チェン・カイコー)監督たちが学んだ北京電影学院という映画専門の超難関の国立大学がありますが、同学院の客員教授をされている古澤敏文氏とひょんなことから知り合い、意気投合するうちに、「是非一度、学院で坂和弁護士の講義を!」という話になり、それが実現したわけです。

 10月9日の打合せと昼食会そして学院内の見学を経て、翌10日、学院には「日本著名電影評論家坂和章平談 中国電影在日本」と書かれた私の顔写真入りのポスターが貼られました。それを見た私はうれし・はずかしの気分と共に、一体どれくらいの学生が聴きにきてくれるのか期待と不安がいっぱいでした。そこで早めに教室に入ったところ、講義開始時間の45分前にもかかわらず、最前列をキープする10名ほどの学生の姿が!さらにその後もぞくぞくと学生が入り、開始時間直前には教室に約50名が入って満員御礼。開始前から大感激です。

 日本から準備していった中国語版のレジュメ、1972年9月29日の田中角栄と周恩来の握手による日中国交正常化35周年を記念する新聞記事、そして朝日新聞が2006年6月14〜16日で大特集した『中国電影(えいが)100年 上・中・下』の資料等をフルに活用しながら講義は進み、結果的に15分時間を延長して、最後には大きな拍手で終了しました。

 講義終了後、中国の学生たちから私の映画評論本である『SHOW-HEYシネマルーム』1〜14を読みたいが中国語訳したものはないのかという質問を受けました。そこでその手の話に乗るのが早い私は、帰国後すぐ、中国映画を特集した日本語版の『坂和的中国電影大観』のパート2の出版企画をするとともに、何と『坂和的中国電影論』を中国語の翻訳で中国13億の人民をターゲットに出版企画を練っています。

 これが実現すれば、そりゃすごいこと。また、一度ならず二度三度と北京電影学院で講義することも夢ではなくなるかもしれません。そんな期待をもって、今回の興奮を皆さんに伝えたいと思います。

遠くで思うこと/東トルコでの天地創造
メディアプロデューサーの藤本裕子さんから

 人類文明は川が育んだといえるだろう、二つの大河チグリスとユーフラテスはメソポタミア文明の母である。その源流を訪ねて東トルコへ行った。野の花々が乱れ咲く美しい季節を五感で受け止めたい、単純にそれだけであったが、チューリップの原産地でもあるというアナトリアには、もっと原種に近い草花に出会えるかも、という淡い期待もあった。だが収穫は花だけでは無かった。

 これらの川を地図でたどると トルコ東部の山岳地帯に達する。バグダッドやバビロン辺りでは、広い川幅を持つ大河もここまで来ると支流が枝別れして谷底に糸の如く見えたり、マルコポーロが渡ったと云われる橋があったりで物語が現実味を帯びてくる。アレキサンダー大王率いる大軍の通った山岳道路は今でも主要幹線である。

 世界遺産も数多いが、その一つ「ネムルート山」へ朝日を仰ぎに行く。ここはB.C.2000年頃からのコンマゲネ王国のあったところで、山頂のアンティオコス1世の陵墓の石積みは、小石を手で運んで山としたと云われている。東のテラスにはゼウス・アポロンなどの神像が朝日に映えて神々しい。その演出のすごさに敬服する。だが、このあたりの紀元前の遺跡300もが、広大なダム湖「アタチュルク湖」の湖底に沈んでしまったという、トルコの荒々しい近代化にも目を見張る思いがする。

 更に私を感動させたのは、旧約聖書に描かれた世界である。トルコの東側はシリア・イラク・イラン・アゼルバイジャン・アルメニア・グルジアと多くの国々と国境を接している。今、このあたりに昔から住んでいるクルドの人々と、もめ事が続きニュースを賑わせている。

 「ノアの方舟」がたどり着いた「アララット山」はこの地に雪を頂きそびえている。国境の町ドゥバヤジットのホテルの窓から、朝な夕な飽きず眺め続ける“聖なる山”(5137m)その溶岩の山裾に地元の人が「ゲミ(舟)」と呼ぶ舟形の台地がある、傍らに小さな博物館まであって古代への夢を語りかけてくれる。私はアララット山をスケッチブックに納めた後、帰ってからアルシュの水彩画紙に大きく 引伸ばしてみようと描き出した(絵)。すると「方舟」までイメージに出てきた。創造の神よ!21世紀の地球はどの様に救われるのですか?未来の方舟にアダムとイヴは乗ることが出来るのですか?

 それともビッグバンで全て「無」になってしまうのですか?これからが大切だ。

 考えているうちに「方舟」は沈みかけてしまった。

「大阪・水辺の都市サミット」開催
ロゴ有限会社代表取締役の川嶋みほ子さんから

 2009年の夏から秋、大阪の都心部で開かれる「水都大阪2009」への機運を高めようと、大阪では今、水辺をテーマにした催しが目白押しです。その一環として、07年10月半ば、私の所属するNPO大阪再生プラットフォームと、NPO大阪水上安全協会が、東京のNPO都市環境研究会との共催で「第1回大阪・水辺の都市(まち)サミット」を開催し、市民や企業人ら約160人が、国内外の水辺再生の現場からの報告に熱心に耳を傾けました。

 第1部は、天満橋港から大川−堂島川−土佐堀川を巡る中之島体験クルーズ(写真)。「江戸時代、八軒家浜は京都から淀川を下って来た船が上陸し、熊野詣の旅に出る出発点だった」「堺筋に架かる難波橋に設置された2体のライオン像は、パリのアレクサンドル3世橋を模してデザインしたもので、万物の根源と一切の帰着を象徴する阿吽を表す」等々、NPO職員の“名解説”と、船から見た中之島の美しい景観に、乗船客からは感嘆の声も上がった。

 第2部のシンポジウムでは、日本大学の三浦裕二名誉教授が、東京・荒川における舟運の安全への取り組みを紹介。「東京は1950年代半ばまで、銀座の目抜き通りに水上バスの停留所があり、大阪に負けない水都だったが、東京五輪(1964年開催)を境に全てが壊された。しかし現在は河川政策が非常に進み、荒川周辺の施設の情報まで載せた親切なマップも無料配布している」。そして、「東京都内には防災船着場が72ヵ所完備している。大阪も大地震等に備えて、どこにでも船を泊められる水際の環境整備が必要」と提言しました。

 台湾・高雄市の愛河再生計画立案者・陳繼志氏らは、1960年代から工業化に伴って汚染が進み、71年に「この河は死んだ」と宣言された高雄市の愛河を、短期間で元の綺麗な状態に再生した経緯を披露しました。「大規模な下水道整備と同時に、堤防の建設よりも、上流に洪水の氾濫を防ぐ人工湖を造ることを優先することで、親水空間を守った。流域の歴史的建築物の再構築や保存、環境保護等、総合的なプロジェクトを推進している」。

 最後に、八軒家プロジェクト・中嶋葭子代表、NPO新町川を守る会・中村英雄会長、日本大学理工学部・吉川勝秀教授らが、「市民が主役となることが、都市の魅力づくりの原動力となる」「水都復活のためには、市民が興味を持って水辺に出てくるような楽しい仕掛けづくりと、舟運拠点の再生が重要である」など、示唆に富んだ意見を交換しました。

 3時間半以上に亘った第1回のサミットは、お陰さまで成功裡に終了したと言えるでしょう。私どものNPOは、皆さまから頂いたご提案やご意見を活かしながら、水辺の空間や舟運を日常生活の中にもっと取り込んで、「水都・大阪」に相応しい、楽しく安全な水辺を演出することを活動の重要な柱と考えています。今後ともご指導・ご支援のほど、なにとぞよろしくお願い申しあげます。

済州島一周サイクリング
神戸学生青年センター館長の飛田雄一さんから

 昨年、済州島の旧日本軍施設を訪ねるフィールドワークのことをこの会報に書かせていただいた。今年はおなじ済州島を自転車で一周してきた。

 昨年知り合った在日韓国人の、4回も自転車で一周したという言葉に大いに刺激された。帰国後、自転車を購入しサイクリングを始めた。済州島一周サイクリングのためである。自転車は予想以上に楽しい。距離も伸ばし、六甲山にまで登った。完全にはまってしまったのである。
エメラルドグリーンの海と筆者

 9月6日〜9日、その先輩ら10名と出かけた。初めて飛行機に自転車を積んだが意外と簡単だった。JRの輪行と変わらない。初日は雨。済州市内観光で久しぶりに耽羅木石苑も訪ねた。2日目、小雨をついてスタートしたら徐々に天気が回復してきた。反時計周りに西海岸を南部の中文まで約100キロ。3日目は城山日出峰まで同じく約100キロ。4日目は牛島に立ち寄ったのち済州国際空港を目指した。飛行機の時間が迫った私はあと30キロ?を諦めて随行バスで空港に向った。
サイクリングの男たち

 昨年のフィールドワークで日本軍の作った穴で大長今(チャングムの誓い)のロケが行われた話を紹介したが、今年、海岸沿いの走った我々のサイクリングでは、また別の日本軍施設をみることになった。料理もうまいし、道も平坦で快適かつ大満足のサイクリングであったが、日本軍のおかげでまた勉強してしまうことになった。やはり、来年も行きたいものである。(詳しいコース等は、私のブログhttp://blog.goo.ne.jp/hidayuichi/をごらんください。)

「労音」の貢献と「民音」の働き
桃山学院大学名誉教授の徐龍達(ソ・ヨンダル)さんから

 (1)アゴットの例会…私の音楽(昔日は唱歌)との触れあいはいつからだったのか、とふり返ると、実のところはっきりしない。幼いころから歌が好きだったことは確かである。韓国釜山市の教会幼稚園での想い出もさることながら、1942年に渡日後、小学校の学芸会での独唱も想い出される。小学生時代のわたしは、音楽、図画、習字、工作などの芸能科目が好きだった。

 日本の敗戦後、朝日新聞大阪本社ビルの場所に大阪朝日会館があり、その西側にホテルニューオーサカがあって、私はあの悲惨な戦災と食糧難の時代にもそこへよく出かけたものである。会館では若い中学生(や高校生)らにも、クラシック音楽を低廉な入場料で聴かせてくれたからである。わたしの記録によれば、「朝日学生音楽友の会」(AGOT、アゴット)の第1回例会は1948年12月24〜28日、東京バレエ団公演のチャイコフスキー「白鳥の湖」全幕が提供された。その出演は貝谷八重子、谷桃子、島田廣、関直人、小牧正英さんらであり、音楽は朝比奈隆指揮の関西交響楽団であった。音楽の普及をはかる赤字覚悟の快挙は、関響の定期演奏会として、ヴェーバー歌劇「摩弾の射手」、辻久子のヴァイオリン独奏会、藤原義江歌劇団の公演などと続き、それらの鑑賞は、若い私たちにとってはアゴットの例会ならではのチャンスであった。

 超人・朝比奈隆指揮者の功績は筆舌に尽くし難く、現役最後の指揮は2001年10月24日、愛知県芸術劇場での大フィル演奏会で、演奏曲目はアゴットの第1回例会と同じく、チャイコフスキーの曲だったことに奇しき因縁を感じたものである。

 (2)「労音」の貢献…敗戦後の日本経済も立ち直り、「韓朝鮮戦争」特需の余禄を得て日本は高度成長を達成した。労働者にも良質の音楽を大衆料金で提供する市民運動が高まり、労働組合組織の功績ともいえる「労音」(労働者音楽協会)が誕生した。わたしが大学生のころ、この「労音」のおかげで幾度ともなくすばらしい古典音楽に接することができた。大阪では、主としてフェスティバルホールとサンケイホールが使用されたが、「労音」がクラシック音楽の大衆化に果たした貢献もまた、筆紙によく尽くし難いものがある。

 労働者大衆の手の届くところに古典音楽の粋が実在したのだから、どれほど多くの人々に心の安らぎを与えたことか。わが身をふり返ってみても感謝の気持ちで一杯である。とりわけ、ソプラノの世界的な名歌手で美しいシュヴァルツコップ(直訳名では「黒い頭」)の印象は、いまだにわたしの脳裏にふかく刻まれている。そのほか、世界的な指揮者によるクラシック音楽のコンサートは枚挙にいとまがない。

 時移りて私はウィーン大学で教鞭をとったが、音楽人のメッカ「楽友会館」でロリン・マゼール、リッカルド・ムーティ、チョン・ミョンフン、小澤征爾らの指揮を拝聴できたこともアゴットと「労音」の影響であると感謝している。

 (3)「民音」の働き…このようなアゴットと「労音」を想い出させてくれたのが今日における「民音」(財団法人民主音楽協会)である。「民音」は「音楽芸術を享受する喜びと感動を、より多くの人々と分かち合うために、民衆を主体とした多角的な音楽文化運動」を目的として1963年に設立されたという。その想いは「労音」とひとしく、音楽文化の活性化によって青少年の情操を豊かにするのみならず、グローバル化すべき大衆の精神的な豊かさと意識の向上に役立たせることにあるのは言うまでもない。

 2007年度の「民音」行事は、日中国交正常化35周年記念として、中国雑技団「龍鳳伝説」(アクロバット団)を招き、9月以降、日本の61都市で110回以上も公演を行った。私たちは11月15日(木)、フェスティバルホールで同公演を鑑賞する機会に恵まれた。それは例年行事の音楽芸術とは異質のアクロバットで、まさに驚嘆に価する催し物であった。

 中国四千年の歴史の結晶ともいうべき「雑技」は、人間のなしうる技の限界に挑んだ感を強くしたものだった。いくつもの難易度の高い技を組み合わせ、観客が息をのむほどのスピードとダイナミックな連続技は、美の頂点を極めた芸術性の深奥を感じさせた。だが半面、演技中に2、3のミスが目立ったのは、おそらく110回以上もの日本公演を消化するうえでの人間らしい過労によるもので、わたしも同情を禁じえなかった。それにしても、鑑賞する大勢の大衆と雑技団との渾然一体となったフィナーレは見事なものであった。わたしはそこに、「民音」による音楽文化の教育が充たされると共に、日本の音楽芸術の興隆に役立つ一つの運動を見る思いがしたのである。

こんな話 ―ヒヒ〜ンパカパカ―
漫画家の河村立司さんから

 むかし祖母から聞いた話。

 「明治、大正から昭和1、2年ごろじゃったが、村でたったひとりのお医者さんはお馬に乗って往診されとったんよ。村のひとで、急に病気になったり、お嫁さんが産気づいたりしたら、近所の若い衆がそのお医者さんを呼びに走ってくれた。やがてヒヒ〜ンパカパカと蹄の音がすると、ひと安心じゃった。うん、夜中でも雪の中でも来てくださった。りっぱな口髭をはやした先生じゃったなぁ」

 「ずっと以前は人力俥じゃった。そのお医者さんのお馬はおとなしくて、先生はときどき看護婦さんを抱っこして乗って来られた。寒い日にはインバネス(マントの一種)を着とっちゃった。頭痛、腹痛、子供のひきつけ、なんでも診てくださった。難産のときは、産婆さんを前に乗せて、うん、産婆さんはおばあちゃんじゃったが、上手に手綱をとっちゃったよ。この村には産婆さんが3人いたけれど、この辺のお産はみんなあのおばあちゃんの受持ちじゃった」――

 炬燵でミカンを食べながら、そんなむかし話を聞くのが楽しみだった。面白かった。子供ごころに、情景をぼんやり描いたものだ。

 いまは急患がタライ回しに遭ったりする。医学が進歩し新薬も山ほど出まわっていて、ヒヒ〜ンパカパカのスローテンポがピーポーヒーポーの救急スピードアップになっているが悲劇は絶えぬ。医師不足、多忙、看護師と深夜問題、診療システムの細分化、医療権限の規定などハードルは多いそうだ。それに、なんでもかんでもすぐお医者に頼ってしまう風潮もひどくなる一方。

 わけても暮れから正月は急患の季節。雑煮がのどで立往生。高級お節に釣られ、へべれけに酔うて意識もうろう。めでたく元日に生まれそうな赤ちゃん。ピーポーの応急処理技術は進歩しているらしいが、油断はできぬ。

 ケータイとパソコンで患者と医者をつなぐ便利な世の中だが、お馬パカパカのほんわかムードを診療室にも漂わせたいものだ。

 私の小学校の同級生に医院を開業しているのがふたりいる。あれやこれやで、もうシンドイらしい。

 みなさま、お元気で、楽しい新年を。

「紙の本はなくなるのか?―デジタル時代の出版メディアと図書館」
夙川学院短期大学の湯浅俊彦さんから

 2007年10月7日、生駒市教育委員会主催「電子図書館講演会」のゲストとして生駒市北コミュニティセンターにおいて「紙の本はなくなるのか?―デジタル時代の出版メディアと図書館」と題して話しました。

 1996年の2兆6980億円をピークに2006年までほぼ下降傾向を示す出版不況の中、日本の出版業界がどのように電子出版に取り組んできたのか。また図書館界における電子図書館の動向、さらにはグーグルやアマゾンが書籍の全文データベース化をいかに進めてきたのか。そして「ケータイ小説」など若年層のメディア受容と「活字文化」のゆくえについて概説しました。

 書籍という信頼度の高い情報源が全文データベース化される事態は、今後の出版メディア環境にどのような変化をもたらすことになるのでしょうか。

 講演会に参加された方々からは様々な質問がありましたが、図書館主催ということもあってか、紙の本に対する愛着を感じさせる質問が多かったことが印象的でした。

 

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