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過剰な愛と憎しみ

熊倉 功夫
林原美術館長、国立民族学博物館名誉教授


 これから書こうとすることは、自分自身に対する強い反省をこめているので、どうか意のあるところを汲みとっていただきたい。

 わが家で飼っている柴犬が、先日15歳の誕生日を迎えた。名前は“ヤマト”という。ずいぶん立派な名前がついているようだが、実はペット・ショップから入れられてきた段ボール箱に某運送会社の社名が印刷されていて、そのままヤマトとなった。

 子犬だったヤマトはスマートな成犬になり、飼主に似て吠えもせず噛みもせず、甘えもせず(ここは飼主と違う)、15年間、わが家の平和維持に偉大な貢献を果してきた。人間の年齢でいうと何歳になるのか知らないが、今は目も見えず耳もきこえず、鼻もきかず足も弱まって、部屋の中を徘徊するばかりだが、それでも可愛い。

 自分の子供の寝顔だって見に行くことのなかった私が、ヤマトの寝顔を見てからベッドへ行くと、妻があきれていた。しかしそういう妻だって、ベッドに犬の寝る場所を作って、自分は端の方へ寝ていた(今はベッドに上る脚力を失っている)。

 仲間うちで話をしていても、自分の家族や持ちものを自慢する輩は鼻もちならぬのに、自分のペットだけは、互いに手離しで誉めちぎる。他人から見たらみっともないと思いつつ、これがやめられない。

 これは明らかに異常なことだ。ペットに過剰な愛情をそそぐ人が、自分も含めて急増しているのはなぜか。そもそも、なぜ、ペットがそれほど可愛いのか。

 ペットは人を裏切らないからである。

 人は今、絶対に自分を裏切らないものしか愛せなくなっているのではないか。しかし、愛とは、自分を裏切るものも、思い通りにならぬものも許容するのが本当であろう。ところが、裏切られぬものへの愛情が過剰となればなるほど、反対に、裏切られた時の憎しみが過剰に走る。

 わけのわからない憎しみが、社会のさまざまな場面でふくれあがっている。突然、爆発する。家族に裏切られたのか友人か、会社か社会か、憎しみを増殖させている本人にもよくわからないが、ともかく憎しみがふくれあがる。

 高校生のときに見たフランス映画の「天井桟敷の人々」の中で、「嫌な奴が皆殺せたら、こんないいことはない」(たぶんこんな意味だったと思うが正確な科白は忘れた)と名優ピエール・ブラッスールが言う場面があって、しびれた。誰だって、あいつがいなければいいのにと思い、殺してやりたい、と思う。でも、思ってもやらないし、できない。

 誰が憎いのかわからないにもかかわらず、裏切られたという思いだけが爆発すると無差別殺人のテロになる。このままでは、日本中でテロが日常化するだろう。

 ペットへの愛情過多と無差別テロと連動しているわけではないが、人間がますます狭量になったことの表れであることに共通性がある。要は包容力とでもいうべきものなのだろうが、そんな上等な能力でなくともよい。

 大事なのは、「そこそこ」ということだ。

 子供の頃、わが家で飼っていた雑種の犬は、どこかで拾ってきた野良犬であった。毎日、残飯を食べ、軒下の犬小屋で過し、さしたる愛情も受けず、しかし番犬としての用はそれなりに務め、確か6、7年で死んだ。死んだ時は悲しくて、庭先に埋めたのを今もありありと憶えているが、家族の誰も、ペット・ロスト・シンドロームなどかかることはなかった。犬と人間との間にけじめがあって、犬は犬の生死があるのが当然だと皆が思っていたからだ。それが「そこそこ」のつきあいである。

 愛は裏切られる。裏切られても、思い通りにならなくても愛するためには「そこそこ」の愛が無難である。裏切られてもつきあいは続けなければならないことは、この世に山ほどある。そのたびに切ったはったでは身がもたぬ。

 そこそこのおつきあいこそ、マナーの原点であろう。夫婦しかり、親子しかり、友人しかり、世間しかり。そうありたいと思うが、ヤマトの寝顔を見ていると一寸自信がない。この夏、無事に越せるかどうか、老犬の先行きが心配だ。もし来年の年賀状が届かなかったら、ヤマトの喪中と考えてほしい。 (くまくら・いさお)


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