ビジュアル球史

1915年-1939年

始まりは10校、「聖地」も完成

 全国中等学校優勝野球大会の名称で、第1回は10校が参加して1915年に開催された。場所は大阪の豊中グラウンド。甲子園球場(当時は甲子園大運動場)が完成するのは24年だった。米価が暴騰し、米騒動が起きたのは18年。地方大会を勝ち抜いた14校が大阪入りしていたが、大会は中止になった。JOBK(現NHK大阪放送局)がラジオで実況放送を開始したのは27年。29年、甲子園球場のアルプススタンドが完成し、翌年、参加校数は500を突破した。ただ、37年に北京郊外で盧溝橋事件が起きるなど、戦時色は徐々に強くなっていく。

第1回
1915

初代王者、サヨナラで誕生

 第1回大会で豊中に集ったのは10校。当時は第1次世界大戦の最中、時の首相は大隈重信。はやる文句はゴンドラの唄、いのち短し 恋せよ乙女――そんな時代だった。大会を報じる朝日新聞には夏目漱石の「道草」が連載されていた。

 1915年8月23日、京都二中(現・鳥羽)と秋田中(現・秋田)の決勝は様々な「大会初」を生んだ。その一つが延長戦。京都二の藤田投手は直球ばかりを打ち慣れた相手を、カーブでほんろうする。対する秋田は守備力で勝る。九回を過ぎても1―1と、譲らなかった。

 そして上の写真も、大会初の瞬間をとらえた。十三回裏1死二塁、内野への打球で秋田の守備がもたつく間に、京都二の走者が本塁へ。初の「サヨナラ」で初の覇者が決した。

第17回
1931

台湾代表KANOの活躍

 台湾代表の嘉義農林が観衆を沸かせた。決勝では中京商に完封負け。この年の力強い戦いぶりが、2014年に「KANO 1931海の向こうの甲子園」の題で映画化された。

民族の架け橋になった名将

 映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の主人公は近藤兵太郎(1888~1966)。弱小チームだった嘉義農林を初の台湾代表、さらに夏の甲子園準優勝にまで導く。日本統治下にありながら台湾の人々の尊敬を一身に集めた。そして全国制覇5回、選抜大会優勝2回を誇る松山商の初代監督として、「第1期黄金時代」を築いた先駆者でもある。近藤とはどんな人物だったのか。その業績をたどった。

 「先住民は足が速い。漢人は打撃が強い。日本人は守備にたけている」

 3民族が混成する嘉農を率いた近藤の口癖。映画「KANO」でも、酒の席で野球部のことを小馬鹿にされ、声を荒らげてこう反論するシーンがあった。決して差別せず、それぞれの特徴を生かして鍛えれば、きっと強くなるとの信念があったのだろう。

第19回
1933

延長25回の死闘

■準決勝 明石中(兵庫)0―1中京商(東海・愛知)

 明石中―中京商は延長二十五回に決着した。無死満塁で、中京商の大野木が二ゴロ。野手から本塁への送球がそれた間に決勝点が入った。5時間の死闘だった。

コラム

試合速報器プレヨグラフ

 プレヨグラフ、と聞いてわかる人は少ないだろう。第12回から、大阪の公園などに置かれた巨大なボード。「ダイヤモンド」などが配され、甲子園から電話で届く球場の状況を伝える「速報盤」だ。インターネットの一球速報のようなものか。

 カーブが投げられたら、球を曲げながら動かしたというから、臨場感もひとしおだっただろう。なかなかボールが動かないと「投手が考え込んでいるんだ」と楽しんだといい、数千人から1万人が集まった。

 人気の裏返しに速報に苦心した時代。翌年、いよいよ真の実況放送が始まる。

1940年代

戦争による中断、そして復活

 太平洋戦争への突入、その後の敗戦と、1940年代は高校野球の歴史にとっても暗雲に覆われた時代だった。太平洋戦争が始まった41年は地方大会のみ実施され、翌年から大会は4年間中止に。戦争が終わると、甲子園球場は米軍によって接収された。だが、大会は力強く息を吹き返す。46年、全国中等学校野球連盟(現・日本高等学校野球連盟)が発足し、西宮球場で大会は再開。47年に参加校数は1000を超え、7年ぶりに全国選手権が甲子園球場に戻ってきた。翌48年は学制改革があり、大会名を現行の「全国高等学校野球選手権大会」に改称。今も歌い継がれる大会歌「栄冠は君に輝く」が全国募集で制定された。

1941

バットは奪われ銃剣を持たされた

 第27回は全国大会が中止になった。朝日新聞は社告でいったん開催を告知し、地方大会も始まったが、7月にスポーツの全国的な催しを禁止する文部省次官通達があった。

 写真は国防競技の「手榴弾投擲(しゅりゅうだんとうてき)突撃」。

 松本深志高(長野)の野球部史に競技の経験者談として、30メートル先の円陣に手榴弾を投げ込み、これを4回繰り返した後、わら人形に銃剣で突撃、その時間を競ったとある。同校野球部は1941年秋、明治神宮国民体育大会にこの種目で出場。この頃から各地で野球部は解散に追い込まれていった。

コラム

戦火に散った球児たち

全試合完封、伝説の左腕嶋清一

 第25回大会(1939)に出場し、優勝までの全5試合で完封勝ちした海草中(和歌山)の嶋清一。準決勝と決勝はノーヒットノーランを達成した。大学に進学した後、太平洋戦争のために学徒動員で出陣、ベトナム沖で戦死し帰らぬ人となった。


投の沢村栄治、打の景浦将

 日本のプロ野球は「沢村が投げ、景浦が打って始まった」という。東京巨人の沢村栄治(京都商出身)が速球を投じ、大阪タイガースの景浦将(松山商出身)が豪快スイングで応じた。しかし草創期のヒーローは2人とも軍隊に召集され、戦死する。沢村が27歳、景浦が29歳の若さだった。

景浦将が甲子園に名を残すのは第18回大会(1932)。松山商の6番・三塁手で、救援投手も担ったが決勝で惜敗した。立教大を経てプロ入りした景浦は首位打者や打点王、最優秀防御率のタイトルを手にした。しかし1945年5月、フィリピンで戦死した。写真は第18回大会決勝、足に打球を受け負傷した景浦。

第20回大会(1934)には、京都商のエース沢村栄治が登場した。1回戦で鳥取一中に敗れて姿を消したが、プロ野球の巨人に入団し活躍した。太平洋戦争で戦死。後年、シーズンで最も活躍した先発投手に贈られる「沢村賞」が創設された。

第28回
1946

終戦、高校野球が帰ってきた

 ピンと足を伸ばして観戦する2人の子ども。一人は草履ばき。竹皮に包まれた弁当の中身は、おにぎりだろうか。

 終戦から1年後、全国中等学校優勝野球大会が再開した。甲子園が連合国軍総司令部(GHQ)に接収されていたため、西宮球場で開催したが、スタンドをファンが埋め尽くした。

 朝日新聞社は1945年秋、地方取材網を通じて大会ができるかを調査。翌年1月、「社会情勢の許す限り」としつつ、復活を社告で宣言。地方大会には過去最多の745校が参加した。


玉音放送から1年、大会再開

 「こんな幸せがあるのだろうか」。行進しながら、東京高等師範学校付属中(現筑波大付高)の二塁手、竹田晃(84)は喜びに震えた。第28回全国中等学校優勝野球大会は、1946年8月15日に開幕した。「玉音放送」に涙したあの日から、ちょうど1年がたっていた。

 戦後の混乱の中、勤労動員から戻った東京高師付中の選手たちが練習を再開したのは、終戦から1カ月半後の45年9月末だった。ボールやバットは同年5月の空襲で校舎ごと焼けてなくなっていた。闇市などで手に入れた10個ほどのボールをボロボロになるまで使い、糸がほつれれば自分たちで縫い直した。木目がはがれたバットは小さな釘を打ち付けて補強した。

 「試合中にバットが折れて1本だけになったときは、『これが折れたら負けだぞ』ってね」と竹田。グラウンドはサツマイモや青菜を作る畑になっていたため、道路を挟んで向かいにある高等師範学校の運動場を借りた。細々と、だが着実に球音は全国各地に戻り始めていた。

第31回
1949

小倉北、3連覇ならず

 第31回大会の見どころは、小倉北(前年は小倉)が3連覇を果たすかどうかだった。1年時から出場するエースの福嶋一雄がこの大会もマウンドに上がったが、準々決勝で倉敷工に延長の末に惜敗。2013年に野球殿堂入りした。

1950年代

できあがる「原型」

 戦後の色合いが残る1950年代、現在の高校野球の「原型」が少しずつできていく。戦時中に供出されていた内野席の大屋根が51年、甲子園球場に戻ってきた。銀色のアルミ製で、「銀傘(ぎんさん)」という愛称がその後、定着していく。ポジションを示す「背番号」を初めてユニホームにつけてプレーしたのは52年。翌53年には、NHKが初めてテレビの実況中継を始めた。56年には初のナイター試合を実施。58年、各都道府県から代表が出場し、米統治下の沖縄代表(首里)が初めて甲子園球場の土を踏んだ。

第38回
1956

まぶしい、初のナイター試合

 甲子園に夜間用の照明設備が作られたのは1956年。この年にあった第38回大会で、初のナイター試合が行われた。カードは1回戦の伊那北―静岡戦。延長十回に3点を奪った伊那北が勝利した。

第39回
1957

投手・王貞治の大記録

 2回戦、対寝屋川戦で大会史上15人目のノーヒットンーランを達成した早稲田実の王貞治投手。準々決勝で準優勝の法政二に敗れた。第38回大会にも左翼手兼投手として出場。通算春夏2回ずつ甲子園に出場した。1957年の選抜大会では優勝投手になった。

第40回
1958

徳島商の板東、逃した頂点

 徳島商・板東英二が活躍した。魚津(北越・富山)との準々決勝は延長十八回でも決着がつかず、引き分け再試合に。板東は翌日の試合も完投して勝利したが、連投の疲れか、決勝では打ち込まれて大優勝旗を逃した。

今も破られぬ奪三振記録

 板東が計6試合で奪った三振は83個。それに次ぐのが2006年に優勝した早稲田実の斎藤佑樹(現・日本ハム)が記録した78個(7試合)、3位が12年に桐光学園の松井裕樹(現・楽天)が作った68個(4試合)。記憶に新しい現代の好投手たちも届かなかった、色あせぬ大記録だ。

コラム

優勝旗が盗まれた?

 第36回大会(1954)は、中京商が5度目の優勝を飾った。決勝では静岡商に3―0で快勝した。ところが、優勝旗が学校から盗まれてしまい、チームは大会後も注目を集めた。後日、優勝旗は近くの中学校の床下から発見された。これを機に、大事をとって優勝旗を銀行に預ける優勝校もでてきた。

1960年代

カラー中継、高まる列島の熱

 戦争が終わってから20年以上がたち、第50回記念大会が実施されたのは1968年だった。64年の大会から出場選手は全員、戦後生まれになった。大会の規模も徐々に拡大し、高校野球熱も高まっていく。63年、参加校数は2000を突破した。NHKがカラーテレビで中継を始めたのは65年からだ。69年、松山商(愛媛)―三沢(青森)が決勝では初めてとなる延長18回引き分け再試合の熱戦を繰り広げ、全国の高校野球ファンを魅了した。

第43回
1961

浪商の「怪童」

■準決勝 浪商(大阪)4―2法政二(神奈川)

 「怪童」尾崎という投手は、ある世代、そう60歳以上の人たちにとっては特別な存在だ。

 「速いだけでなく、ボールが重い。あんな投手はほかにいない」。対戦した打者は主張し、ファンは「映像を解析したら、球速が160キロを超えていたらしい」などと自慢する。「甲子園で1番すごいボールを投げた投手は誰か」という企画では、たいてい1位だ。

 1961年夏、2年生エース尾崎を擁する浪商は全国制覇を果たす。「怪童」は大阪大会から甲子園まで12試合を投げ、わずか3失点だった。その秋、浪商を中退してプロ入り。本来なら高校3年生の年に、東映フライヤーズで20勝して新人王に輝いた。

 その「怪童」をして、どうしても勝てないチームがあった。神奈川代表の法政二だ。

第47回
1965

沈む炭坑町が熱狂した三池工V

■決勝 銚子商(東関東・千葉)0―2三池工(福岡) 

 ヤマもウミも、わき上がっていた。

 「野球、どけなったかいっ」。国内最大級の三池炭鉱を抱えた福岡県大牟田市。地下400メートルの坑内から地上の事務所へ電話がひっきりなしにかかった。「0―0か」「上田、調子よかばいな」

 遠く東の千葉県銚子市。国内有数の漁業都市も商店街、港が静まりかえった。8月は底引き漁の解禁前。準備に忙しい漁師も市場関係者も「休憩すっぺ」と、ラジオやテレビのスイッチを入れた。

 甲子園は曇り、観衆6万。一塁側のアルプスは大漁旗が何十本と翻り、「大漁節」で盛り上がる。三塁側はヘルメットにキャップランプの鉱員が「炭坑節」で調子づいた。

 勝ったのは三池工だった。

 プロ野球ではONが活躍し、大相撲は柏鵬時代。誰もが突っ走っていた高度経済成長のころ。沈んでいた炭鉱町の無名校が放ったまばゆい光は、今も球史を照らす。

第51回
1969

球史に残る決勝引き分け再試合

■決勝 松山商(北四国・愛媛)0―0三沢(北奥羽・青森)

 松山商―三沢は決勝戦では史上初の引き分け再試合となった。延長18回裏、三沢は2死から太田が二盗に失敗し、試合終了。翌日の試合は松山商が4―2で勝ち、優勝旗を手にした。

終わらぬ「0」、列島くぎ付け

 もう46年も前のことなのに、くっきりと思い出せる。

 ぼくは愛媛・松山の郊外に住む小学1年生だった。夕方になると、凪で瀬戸内海からの風がやむ。ジリジリと暑い6畳の居間で、白黒テレビの画面を食い入るように見ていた。松山商(愛媛)と三沢(青森)が戦っている。

 得点は「0」の列が続く。三沢のエース太田の快速球に松山商の打線は黙りこくった。「松山商が負けるわけがない」。そう思っていたが、延長十五回裏、いても立ってもいられなくなった。1死満塁の大ピンチになった。

 ふと隣を見て驚いた。白いシャツとステテコ姿で寝そべって見ていた、ふだんは偉そうな父の、たばこを持つ右手が震え始めた。灰が落ちそうなほど、ぶるぶると。

1970年代

49代表制、盛り上がる故郷対決

 1970年代は、高校野球の質が大きく転換する。理由は木製に代わる金属バットの登場だ。初めて使用が認められた74年から、本塁打数は一気に増加傾向となる。ラッキーゾーンが撤去された92年に一時、本塁打数は減少するが、73年までは普通だった1大会で1けたにとどまるようなことはなくなった。参加校数が3000を超えた78年の第60回記念大会から、現行の49代表制が定着した。

第55回
1973

怪物江川、サヨナラ押し出し

■2回戦 作新学院(北関東・栃木)0―1銚子商(東関東・千葉)

 “怪物”と称された剛腕右腕が、雨中の試合で涙をのんだ。「たった1人のスター選手が大観衆を集めた」と言われた作新学院(栃木)の江川卓だ。2回戦の銚子商(千葉)戦には、5万6千人がつめかけた。

 試合途中から雨が降り始めた。0―0の延長12回、雨で球が滑り、制球が利かなくなっていた。1死満塁、カウント3ボール2ストライクから江川が投じた直球は内角高めに外れ、押し出し四球に。三塁走者が万歳をしながら生還した。

 この年、作新学院は春の選抜大会で準決勝まで進み、江川は60奪三振を記録。夏の栃木大会では5試合で2安打しか許さず、うち3試合が無安打無得点試合だった。

第56回
1974

原貢・辰徳の親子鷹

 第56回大会は「親子鷹」が話題を呼んだ。ベスト8まで進んだ東海大相模の原貢監督(左)と息子の辰徳だ。辰徳はプロ野球の巨人で活躍し、さわやかな姿やプレーで「若大将」と親しまれた。

第61回
1979

延長18回「史上最高の試合」

■3回戦 星稜(石川)3―4箕島(和歌山)

 「高校野球史上最高の試合」と語られる一戦は、カクテル光線とともに記憶される。

 黄色っぽい照明の灯の中、白球がフラフラと舞い上がったのは延長16回裏だ。星稜の一塁手・加藤がファウルゾーンで白球を捕れば試合終了となり、春夏連覇を目指した箕島の夏は終わるはずだった。

 加藤はしかし、捕球体勢に入った瞬間、尻餅をつくように転倒してしまう。

 1979年8月16日、時刻は間もなく、午後7時半になろうとしていた。

コラム

革命おこした金属バット

 「木製とは全然違った。芯の部分が太いし、詰まっても飛んでいった」

 そう語るのは、元巨人の篠塚和典さん。第56回大会(1974)で優勝した銚子商(千葉)の4番打者だった。

 当時の記録によると、登場したばかりだったため、金属製を使う選手は全体の6割ほど。第5日までの17試合で出た長打62本のうち、約7割が金属製によるものだったという。金属製は木製より反発力が高く打球は飛ぶ。だが、篠塚さんは木製にこだわった。「プロを目指していたから。木製にしかない、『バットに乗せる感覚』がなくなるのが嫌だった」。大会で篠塚さんは2本塁打したが、大会11本塁打中8本は金属製から生まれた。

1980年代

攻撃型野球、観客を魅了

 1980年代は、金属バットの威力が発揮され、野球の攻撃力がクローズアップされはじめた年代だった。「やまびこ打線」の呼び名で、池田(徳島)が打棒をふるって全国制覇したのは1982年。翌年は、「KK」と呼ばれた1年生コンビ、桑田と清原らの活躍でPL学園(大阪)が強さを見せて頂点に立った。2人が3年生になった85年、PL学園は史上最多の1試合29得点など多くの記録を打ち立てた。一方、甲子園球場も近代化していく。84年、手動式だったスコアボードが電光式となった。一定期間以上の教諭在籍を条件に、プロ退団者の指導が認められるようになったのもこの年だった。

第64回
1982

大ちゃんフィーバー

 端正なマスクと快投で「大ちゃんブーム」を巻き起こした早稲田実のエースの荒木。準々決勝では池田に打ち込まれて大差で敗れた。準優勝した1年生の夏から5季連続で甲子園に出場。だが、優勝旗には届かなかった。

荒木大輔と水野雄仁が語る、早実―池田戦

■準々決勝 早稲田実(東東京)2―14池田(徳島)

 甲子園のアイドルは、やまびこ打線にのまれていった。1982年夏、それは、5季連続出場の早稲田実から池田へ、高校野球界の主役のバトンタッチでもあった。あれから30年余り。両校の中心にいた荒木大輔と水野雄仁が語り合った。

 水野 俺たち甲子園でニックネームがつきましたけど、荒木さん「ダイちゃん」だからいいですよねえ。俺なんか阿波の金太郎ですよ。

 荒木 好きじゃなかったよ。なにしろ「ちゃん」だよ。ちょうど、そういうのが嫌な年頃じゃない。

第66回
1984

木内マジック、取手二が初V

■決勝 取手二(茨城)8―4PL学園(大阪)

 2連覇をめざすPL学園を下し、取手二が茨城県勢として初の優勝を果たした。写真は決勝、1回に2点を先制した取手二。初優勝を飾った監督28年目の木内監督は、チームを「私の最高傑作です」とたたえた。

木内幸男監督が語る「私にとっての甲子園」

 甲子園では、びっくりするほど成長する選手がいる。急に選球眼が良くなったり、変化球が打てるようになったり。子どもたちの無限の可能性を、甲子園が引き出してくれるんだよなあ。

 甲子園は、来たい子どもたちを連れて行く場所だと思ってる。俺のための甲子園は、どうでもいい。でも監督にとっては「子どもらとの卒業式」の場なんだ。終わると、生徒にとっては世の中に出ていくスタートになり、監督はまた、ゼロからチームを作り始めていく。出られないと「やり残した感」ばかりが残っちゃうんだよな。

第67回
1985

KKの時代

 「KKコンビ」と呼ばれたPL学園の清原和博と桑田真澄。1年生から3年連続出場し、1、3年の夏には全国制覇を果たした。清原は甲子園通算13本塁打。当時の実況は「甲子園は清原のためにあるのか」。超高校生級のスラッガーは、プロ野球の世界でも525本のアーチをかけた。桑田も、卒業後はプロ野球の巨人で活躍し大リーグにも挑戦した。写真は1984年。

1990年代

参加4000校を突破

 1990年、参加校数がついに4000を突破した。96年に戦後初めて減少に転じるまで、参加校数は増え続けていく。91年には外国人学校に門戸が開かれた。95年1月、阪神・淡路大震災が発生。甲子園球場のグラウンドはひび割れ、アルプス席には亀裂が入った。だが、開催が危ぶまれた選抜大会、そして夏の選手権大会は無事に開かれた。男女を問わず、記録員1人がベンチ入りできるようになったのは96年から。翌年には学校の統廃合によってできた連合チームが大会に参加できるようになった。

第74回
1992

松井5連続敬遠、社会問題に

■2回戦 星稜(石川)2―3明徳義塾(高知)

 明徳義塾は星稜の4番、松井秀喜を5打席連続敬遠した。松井は全20球で一度もバットを振れなかった。

 特に、明徳義塾の1点リードで迎えた7回2死走者なしの場面での敬遠で、球場が騒然となり、9回の第5打席では観客席からメガホンなどが投げ入れられ、試合が一時中断した。

 試合は3―2で明徳義塾が勝利。明徳義塾の校歌斉唱はスタンドからの「帰れ」コールにかき消された。試合中から大会本部や高知県庁、大会を主催する朝日新聞社にも電話が殺到した。

 この問題は新聞やテレビで連日取り上げられ、作戦の是非から高校野球の指導者論まで議論が交わされた。

明徳義塾・馬淵監督、5敬遠を語る

 明徳義塾はなぜ敬遠策を選んだのか。馬淵史郎監督がインタビューで語った。

第76回
1994

佐賀商、決勝満塁ホームラン

■決勝 佐賀商(佐賀)8―4樟南(鹿児島)

 「奇跡の本塁打」といわれたその打席で、佐賀商の西原は野球の神様が降り立ったような感覚を味わっている。13年後、同じ佐賀代表、佐賀北の副島浩史が放つまで、決勝の試合での満塁本塁打は西原だけの記録だった。

 特異な夏だったと言っていい。佐賀、鹿児島勢ともに初の決勝進出。大会の長い歴史でも九州勢同士による決勝はこの一度きりだ。

 佐賀商の奇跡的な優勝は県民を大いに勇気づけた。後年、朝日新聞西部本社の「私と高校野球」という企画で、佐賀商の優勝について読者の投書が紹介されている。「『佐賀ってどこ?』と尋ねる多くの友人の中にいて、なぜか自分が佐賀出身であることが恥ずかしく思えた時もあった。しかし、佐商の優勝でそんな思いもどこへやら。佐賀県人であることを誇りに思えた」

第78回
1996

奇跡のバックホーム

■決勝 松山商(愛媛)6―3熊本工(熊本)

 9回に同点にされた松山商は、10回も1死満塁の大ピンチ。熊本工・本多の打球は守備固めで入ったばかりの矢野への大飛球。タッチアップでサヨナラと思いきや、矢野が80メートルをノーバウンドで返球、本塁でタッチアウトにする。11回、松山商は矢野の二塁打を足掛かりに攻め、スクイズで勝ち越した。

走者と右翼手が再会、悩んだ18年

 アウトになった熊本工の走者星子と、松山商の右翼手だった矢野が再会したのは2014年だった。

 「おー!」。2人は旧知の友だったかのように握手を交わした。「どがん気持ちでバックホームしたとや」。高3の時以来の再会に話は弾み、酒も進んだところで矢野がつぶやいた。「あの話、おれたちに一生ついて回るよな」

 実は矢野も苦しんでいた。元々先発メンバーではなく、あのプレーの直前に交代で右翼手に入り、「思い切り投げたら、たまたまできただけ」。大学や会社で人と会うたび、「すごいやつ」と期待されるのがつらかった。

第80回
1998

「平成の怪物」横浜・松坂

 第80回記念大会は華々しい幕切れとなった。横浜のエース松坂大輔が京都成章との決勝で、無安打無得点試合を達成。横浜は史上5校目となる春夏連覇を成し遂げた。この大会、松坂は準々決勝のPL学園戦で延長17回を投げ抜いた。

「あれ以上苦しい試合ない」

■準々決勝 横浜(東神奈川)9―7PL学園(南大阪)

 PL学園との準々決勝は延長17回までもつれた。松坂が当時を振り返る。「重圧がかかる試合は経験したけど、いまだに、あれ以上に苦しい試合はない」

宇部商、痛恨のサヨナラボーク

■2回戦 宇部商(山口)2―3豊田大谷(東愛知)

 「ゲームセットが宣せられた瞬間の/初めてくずれたきみの表情が/忘れられません」 高校野球を愛した作詞家、故・阿久悠の心も動かしたあの試合。「きみ」と語りかけた相手は、山口・宇部商の元エース藤田修平だ。

 1998年8月16日、夏の甲子園2回戦、宇部商―豊田大谷。左腕の藤田は172センチ、58キロの細身の2年生投手だった。

 2―2の同点で迎えた延長15回裏、無死満塁のピンチの211球目。セットポジションに入ろうとした瞬間、捕手のサインが変わった。「あれっ」。ボールを握っていた左手を無意識に腰に戻した。二塁走者にサインを盗まれないようにするための二つ目のサインだった。

 「ボーク!」

 球審は一瞬の動きを見逃さなかった。約5万人の観客がどよめくなか、投球上の反則行為で進塁権を与えられた三塁走者がホームを踏んだ。

2000年以降

次の世紀へ、続く模索

 21世紀に入り、大会の運営も少しずつ様変わりし始めた。2001年の選抜大会からは、一般選考に加えて、他校の模範になる学校を対象とする「21世紀枠」が導入された。02年の選手権からは、ファウルボールが観客にプレゼントされるように。翌03年の大会からはベンチ入りできる選手が16人から18人に増え、選手への門戸が広がった。また、真夏にプレーする選手の健康管理の必要性も議論されるようになる。00年から延長は18回から15回に短縮。13年からは会期中に休養日が1日、設けられるようになった。

第88回
2006

決勝再試合、斎藤と田中の明暗

■決勝 駒大苫小牧(南北海道)3―4早稲田実(西東京)

 9回2死、早稲田実の斎藤佑樹が打席の駒大苫小牧のエース田中将大に対し力を振り絞る。118球目。144キロの直球で空振り三振。両手を突き上げた斎藤を中心に早稲田実選手の歓喜がはじけた。

 早稲田実ベンチをじっと見つめる選手がいた。2日間で249球を投げた田中だ。「悔いはない」。淡々と語った。

 スタンドに人気が消えたころ、両校ベンチ前で胴上げが始まった。「同世代で一番いい投手」(斎藤)、「最後まで力を残すところにすごさがあった」(田中)。相手エースをたたえた2人の姿も、それぞれの輪にあった。

第89回
2007

「がばい旋風」佐賀北の満塁弾

■決勝 広陵(広島)4―5佐賀北(佐賀)

 決勝はまれに見る大逆転劇に。佐賀北の副島浩史が8回、広陵の野村祐輔から、決勝では史上初となる逆転満塁本塁打を左翼へ放った。公立校の快進撃は「がばい旋風」と呼ばれた。

第92回
2010

沖縄の夢、興南が実現

 雲ひとつない夏の夕空だった。2010年8月22日。関西空港を出た日本航空4791便は、悠々と南へ向かっていた。

 「このタイミングで言えば、喜ばれるかな」。午後6時25分。右の視界に鹿児島の大隅半島が過ぎていく。機長は機内放送のスイッチを入れた。

 「深紅の大優勝旗がただ今、この瞬間、初めて本州、九州を離れ、南の海を渡りました」

 歴史が変わる。前夜、練りに練った言葉に心を込めた。

 前日、全国制覇を果たした興南ナインと、応援団ら約260人を乗せた那覇行きのチャーター機だった。わき起こる拍手の中、監督の我喜屋優は思った。

 「沖縄に優勝旗を渡していいって、野球の神様がやっと認めてくれたんだ」

 夏の甲子園で優勝――。それは沖縄の夢だった。

第97回
2015

100年の夏にふさわしい決勝

■決勝 東海大相模(神奈川)10―6仙台育英(宮城)

 大会生誕100年の決勝にふさわしい熱戦を制したのは東海大相模だった。自ら決勝弾を放った左腕の小笠原と右腕の吉田を擁し、質の高い戦いを展開した。故・原貢監督が率いた第52回大会決勝と同じ10―6のスコアで頂点に立った。

 仙台育英は東北勢として第1回大会の秋田中(現・秋田)から数えて8度目となる決勝進出だった。悲願の達成は持ち越しとなったが、投打の柱である佐藤世、平沢が甲子園で本調子を取り戻し、力強い戦いぶりを見せた。


コラム

プロで活躍するエースたち

第86回大会(2004)は、快速球を投げ込む東北のダルビッシュ有が注目を浴びた。3回戦で千葉経大付に延長戦の末に惜敗。卒業後、プロ野球の日本ハムに入団し、2012年からは大リーグの世界に飛び込んだ。

第93回大会(2011)の1回戦、帝京戦にリリーフで登板した花巻東の大谷翔平は2年生だった。この年の3月に東日本大震災が起き、被災した地元の期待を背負った花巻東だったが、初戦で姿を消した。

第94回大会(2012)で4年ぶり3度目の優勝を決め、抱き合う大阪桐蔭の藤浪晋太郎(右)と森友哉のバッテリー。卒業後、藤浪は阪神へ、森は西武へと、2人はそれぞれプロ野球の世界へ進んだ。

おわりに

或るはりつめたものを待つ

谷川俊太郎

 つたの緑、夾竹桃の紅、かち割り氷の透明、空の青、ブラスバンドの金、そしてみるみるうちに赤茶色の土にまみれてゆく、ユニホームの白……夏の甲子園は、いつも色あざやかに心によみがえる。

 甲子園――或る人々にとっては、この一語は青春の思い出を開く鍵だろう。私にとってすら、それは単なる野球場の名称ではない。こんなに叙情的なひろがりをもったスタジアムが、世界じゅうにあるだろうか。

 それはほとんどひとつの幻のようにも思えるのだ。夏のさかりのあの数日の、汗まみれ泥まみれの、不思議なさわやかさ。この時代に、ただひとつ残された若者たちの共和国。力いっぱい戦うことが、誰ひとり傷つけない、誰ひとり不幸にしない、束の間のユートピア。

 大きな図体の若者が、幼児のように泣きじゃくる、あのてれくさい光景にも、何か胸をつかれるような単純さがある。不死ではない私たち人間の、腕や、腿や、肩や、胸があんなにも一心に動いて、そして目に見えるもの、利害にかかわるものは何ひとつつかまなかったのである。そのことの中に、私たちが失ってはならない或るはりつめたものがある。

 だが、勝った者の笑顔は、やはりもっとも美しい。笑顔は限りなく明るく、虚無へと開いていて、ただ一度でもそんなふうに笑うことのできた人間は、人生というものの正体について、余計なことを考えずにすむのではないか――とすら、私に感じさせる。

甲子園グラフィティII(1984.朝日新聞社)より