検索とメインメニューとばして、このページの本文エリアへ検索使い方
現在位置 : asahi.com > 高校野球 > 第88回選手権 > 地方大会 > 西東京 > ニュース > 記事ここから本文エリア

〈乗り越えていま5〉 「やればできる」胸に刻んで

2006年06月24日

 あこがれの先輩が打った――。

写真

声をかけながら校庭をランニングする都山崎の山田昇(中央)

写真

放課後の練習を終え、着替えの教室でひと休みする

 三塁側スタンドで、小さく固まっていた10人ほどの中学生たちが大きな歓声を上げた。一塁ベース上の先輩の一挙手一投足に目をこらした。

 昨夏の西東京大会。都山崎(町田市山崎町)の7番打者、山田昇(当時2年)は2死三塁で打席に立った。2―1と追い込まれると、4球目をレフト前に運び、だめ押しの1点を加えた。

 この大会で初めてスタメン入りし、打席に入った。5打席目に出た初ヒットだった。

 観客がまばらなスタンドのなかで、ひときわ大きな盛り上がりを見せる集団に山田が目をやると、そこには幼稚部から中学部まで通った私立日本聾話(ろうわ)学校(町田市野津田町)の後輩たちがいた。

    ◇

 山田は小さい頃から耳に障害を持っている。補聴器をつけていても、普通の会話の声を聞き取ることは難しい。山田の発音はなれない人には聞きにくい。

 授業中は、先生にマイクを付けてもらい、耳に無線のスピーカーをあてて話を聞く。グラウンドでは、両耳に補聴器をテーピングで固定してプレーする。

 小学部の時、すでに身長は160センチあった。同級生のなかで、一番背が高かった。

 小学3年までサッカーチームにいたが、雨の日はチームメートの声がかき消された。意思疎通がうまくとれず、サッカーに興味を失った。テレビで野球中継ばかり見ていた息子の胸の内を察し、父がグラブを買い与えた。

 サッカーと比べ、耳が聞こえなくてもプレーができた。練習すればするほど、上達していくのがわかった。それが面白くて、山田は野球にのめり込んでいった。

 聾話学校の中学部では体の大きさを買われ、ポジションはずっと投手だった。野球部しかない学校で、ちょっとしたヒーローだった。硬球も握り、変化球の投げ方も本を買ってひとり研究した。

 「耳が聞こえなくても、高校でもやっていける」。そう胸を張って、中学を卒業し、地元高校に入学した。

 しかし、高校では投げても投げても、打たれた。「向いていないのかな」。野球が嫌になり、グラウンドに行く足は次第に重くなった。

    ◇

 そんな時、思い起こす好きな言葉があった。

 「耳が聞こえなくても、一生懸命やれば必ず報われる。やればできる」

 聾話学校の川田殖(しげる)校長(当時)が朝礼のたび、授業のたびに、生徒たちに繰り返した言葉だ。可能性は無限にある。川田校長は生徒たちの胸に刻むよう、言い聞かせた。

 2年生の夏を終え、山田はポジションを投手からレフトにかわった。チームには、自慢の肩の強さを生かした送球と打撃で貢献することにした。

    ◇

 野球に耳が聞こえないことは関係ない、と山田はいう。

 しかし、試合中、執印(しゅういん)泰幸監督が何度名前を呼んでも気づかないときがある。打球音がわからず、フライの目測を誤り、守備位置からの1歩目を反対方向に踏み出してしまうこともある。他の守備位置のチームメートとの連係も課題だ。山田は常に周囲に目を配るよう、言い聞かされている。

 それでも、20人に満たない部員のチームで、執印監督は山田に期待を寄せる。「いいスイングのバッティングをする。夏の大会は6番を打たせようと思う」

 山田は高校を卒業後、就職しても野球を続けるつもりだ。野球部OBで野球チームを作りたい。

 「もっとうまくなる。好きだから、野球は一生やめない」

(敬称略)

=おわり

(五十嵐聖士郎、恵原弘太郎)


ここから広告です
広告終わり
▲このページのトップに戻る
asahi.comに掲載の記事・写真の無断転載を禁じます。すべての内容は日本の著作権法並びに国際条約により保護されています。
| 朝日新聞社から | サイトポリシー | 個人情報 | 著作権 | リンク| 広告掲載 | お問い合わせ・ヘルプ |
Copyright The Asahi Shimbun Company. All rights reserved. No reproduction or republication without written permission.