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高校野球総合ニュース

37年前の引き分け再試合、投げ合った2人が振り返る

2006年08月21日

 37年前の第51回大会決勝で引き分け再試合を経験した松山商(愛媛)の井上明・朝日新聞記者(55)と、三沢(青森)のエースで現在は野球解説者の太田幸司さん(54)は、かつての自分の姿をダブらせて、この日の試合を見、聴いていた。

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決勝戦で力投する太田幸司投手(三沢)。再試合も完投した=1969年8月18日、阪神甲子園球場で

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太田投手と共に延長18回を1人で投げ抜いた井上明投手(松山商)=1969年8月18日、阪神甲子園球場で

▼ピンチしのぎ、涙出た 37年前の松山商投手・井上明

 僕と太田投手よりも数段レベルの高い2人の投手戦を甲子園の記者席で堪能した。8回ぐらいから延長になっても1点を取るのは大変だろうと思って見ていた。

 本格派の駒大苫小牧・田中、早稲田実・斎藤両投手の投げ合いを見ているうちに、37年前の決勝で、同じような緊迫感を味わった試合がよみがえってきた。

 三沢の太田投手は大会屈指の本格派といわれた。小柄な技巧派タイプの僕は、立ち上がりから全力投球で挑んだ。投げるたびに「ウーッ」という声を張り上げていた。

 ところが、力むあまりイニングが進むと肩や腕に張りを感じだした。延長に入ると握力がなくなり、カーブはホームベースの前でワンバウンドした。対照的に太田投手が球威を増すのには驚かされた。

 チームメートから再三「頑張れ」と激励を受けてマウンドにあがったが、内心は「何回持つかな」と不安ばかりが先に立った。15、16回の1死満塁のサヨナラのピンチを切り抜けたときには、涙が止まらなくなった。

 それでも、なんとか耐えられたのは、松山商の背番号「1」を背負う意地だったと思う。一方で、「太田も頑張れよ」と同化するような不思議な感情も覚えた。

 200球以上投げた疲れは、宿舎に引き揚げてから出た。食事はのどを通らず、体の火照りと、神経の高ぶりでほとんど眠れなかった。そして、朝、起きると肩といわず腰、足まで全身にきりきりと痛みが走った。アイシングや専属のトレーナーなどなく、風呂に入るのが唯一の体のケアという時代だった。

 田中、斎藤両投手の回復具合が、再試合のカギになってくる。斎藤投手は4連投できついだろうが、やってくれると期待している。僕らの時も勝たなければいけない、という気持ちが強かった。21日も両チームのどちらが「勝つ意欲」が強いかを試される。好試合を期待したい。(井上明)

▼翌朝起き上がれなかった 37年前の三沢投手・太田幸司さん

 移動中の車の中でラジオで試合の結末を聴いていた。こんな事態になると再試合のほうが大変だ。気力とか根性という言葉はあまり好きではないけれど、こうなると、とにかくがんばるしかない。

 37年前、18回を投げ抜いた翌朝は、目が覚めると体中がバリバリに張って、起きあがれなかった。そしてまず脳裏をよぎったのは「マウンドに上がれるのか」という不安だった。今はマッサージやケアが万全だけど、当時は試合後、後輩に背中をもんでもらう程度だった。それでも甲子園に再び来ると大勢の観客に後押しされて、気分が高揚した。だから投げられた。

 駒大苫小牧の田中、早稲田実の斎藤の両投手はよく投げた。今の投手は大変だ。金属バットになって、特に今大会は本塁打も多い。さらに変化球を投げる機会も増えているから、体への負担は当時よりもきつくなっている。僕が監督だったら、両投手には何も声はかけられない。ただ「ごくろうさん」と言って、見守るしかない。そう思う。(談)

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