(1982年準々決勝 池田14―2早稲田実)

 アイドル「ダイちゃん」から「やまびこ打線」へ――。64回大会(1982年)準々決勝、池田が早稲田実(東東京)を14―2と圧倒した試合は、甲子園のヒーロー交代の瞬間でもあった。5季連続出場の荒木大輔を、四国の山あいで豪打を磨いた水野雄仁らが打ち崩した。

 「責任ないですもん」と水野はおどけながら振り返った。上級生にエースで4番の畠山準がいた。「畠山さんたちが5回目のチャンスでやっとつかんだ甲子園を楽しみ、2年生はそれに乗っかっていた」

 一回、同じく2年生の3番・江上光治が、荒木の決め球カーブを右翼席へ先制2ラン。二回も3得点して主導権を握った。守備の乱れが絡んで失点し、5―2となった直後の六回、流れを一気に呼び戻したのが、水野だった。

 2死一塁、外角の直球を強振した。打たれた荒木が「見たことない当たり」と驚く、バックスクリーン横への特大2ランになった。「完璧でしょうね。あの当たりで詰まっていたと言ったら、荒木さんに殺される」と水野は自賛した。

 3年時はエースで選抜大会を制し、後に投手としてドラフト1位で巨人に入る。しかし、この時点では畠山の控えで、5番・左翼だった。「外野を守っていると、流れが良いとか悪いとか感じたことがない。打席が回ってきたら打つ」とシンプルに考えていた。

 7―2で迎えた八回、だめ押しも水野から。相手投手は荒木から石井丈裕に代わっていた。無死満塁、フルカウントからの直球を、今度は左翼席へ運んだ。

 全身で喜びを表した前の打席の本塁打と違い、満塁弾は淡々と塁を回った。「勝負がついていたから。相手に失礼」。この回、打者一巡の計7得点で、早稲田実の戦意を奪い去った。勢いのまま、東洋大姫路(兵庫)、広島商と連破して徳島勢初の選手権大会優勝。山びこ打線は全国区となった。

 端正なマスクで「ダイちゃん」の愛称で知られた早稲田実・荒木の最後の大会だった。一挙手一投足に注目が集まり、目当ての女性ファンが大挙して訪れていた。意外にも、水野は早稲田実や荒木に対し、特別な意識はなかったという。

 山あいの池田町(現三好市)にある野球部寮で暮らしていた。地元の徳島新聞のみ配達されていた。練習に忙しく、入学してテレビで甲子園の映像を見た記憶もほとんどない。「スーパー田舎者。今みたいに情報もない。はっきり言って、知らなかった」

 意識にあったのは、攻撃的野球で「攻めダルマ」と呼ばれた蔦(つた)文也監督への反骨心。全打席で本塁打を狙った。「僕だけでしょう」。球がよく飛ぶ金属製バットが導入されて8年、その特性を生かそうと池田のメンバーは筋力トレーニングに励んでいたが、中でも水野は別格だった。

 1年の夏が終わって新チームになった当初、公式戦で4番を任されることもあった。ある時、監督に「お前、ホームラン狙っているのか」と問われ、「それしか狙っていません」と答えると5番になった。「怖いからと蔦さんの言いなりにならないように。絶対に負けてたまるかって」

1982年のできごと

  • 東北新幹線が開業
  • 500円硬貨発行
  • 映画「E.T.」公開

 ただ、思い返せば理不尽に怒られることはなかった。上下関係も他校のように厳しくなかった。「筋が通っていた。甲子園で勝ちたいとか、田舎の子どもたちを甲子園に連れていきたいとか、そういう気持ちだけだったと思う」

 蔦監督は58歳だった。当時の恩師の年齢に近づきつつある。「50代になって、監督の意図が分かるようになってきたかな」。今も野球と関わる日々、しみじみ思う。(有田憲一)

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 水野雄仁(みずの・かつひと) スポーツ報知評論家。徳島県阿南市出身。4番・エースだった1983年は甲子園で春優勝、夏は4強。巨人で通算39勝を挙げた。