(1976年決勝 海星1―0崇徳)

 スコットランド北部ネス湖にすみ着くという、ネッシーが話題のころだった。神秘の怪物になぞらえて、もらった異名がサッシー。海星のエースで一躍人気者になった酒井は、しかし、あっさりしたものだった。

 「サッシーと最初に出たのが東京の新聞。九州では騒がれてない。チームでも誰にも呼ばれたことがないもん。プロ(ヤクルト)に入ってから余計に言われたよ。仕方ねえな、そんなニックネームなんだなと」

 もっとも、列島西部に現れた怪腕には違いない。長崎大会は3回戦で一回のトップから16連続奪三振。決勝は春の九州大会の鹿児島実戦に続く無安打無得点試合を記録した。地方大会の話題をさらっての甲子園入りで、日に日に練習場のファンが増えてきた。その力量の確かさを天下に示したのが、選抜王者の崇徳(広島)相手の完封だった。

 焦点は二回。先頭を歩かせ、安打とバントで二、三塁にされた。7番打者を迎え、とにかくスクイズをされたくなかった。「早く追い込みたくて。速攻で2ストライクにしたと思うんだが……」。確かに2球でカウント0―2にしている。

 一方、捕手の吉武は「スクイズは頭になかった」。選抜のスコアを見返して研究しており、下位でもバントはないと踏んでいた。「だから2球目はカーブ。バントさせたくなかったら直球を続けたでしょう」。バッテリーの意識は正反対。それでこの試合、最大のピンチを切り抜けたのだから野球は面白い。

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 そのあと2球ボール。「3球勝負したかったけど、ベンチから外せのサインが出た」と吉武。カーブが決まらずフルカウント。こうなれば評判を呼んでいた速球で勝負だ。内角を突いて見逃し三振。崇徳のエース黒田を一ゴロに取り、先手を取らせなかった。

 三回も2死三塁を背負ったが、これを抑えたあとの2人の記憶は、急に薄らぐ。まさに危なげなかったからだろう。四回から八回まで3人で片づけ、九回2死に四球を出しただけだ。

 「僕らは挑戦者で、負けてもいいやみたいな感じで。春夏連覇がかかった崇徳の方がプレッシャーがあって、だんだん打てなくなったんじゃないかな」と酒井。「序盤を切り抜けて楽になった? いやいや。なんせ打てなかったからね。常に試合の目標は自分が0点に抑えることだった」

 海星も七回1死まで無安打だった。直後に2安打で2死一、三塁。ここで古川一の詰まった打球が一塁線に転がった。黒田いわく「ネズミ花火のように」回転していた。黒田が捕手の応武と一瞬譲り合って内野安打に。古川一が俊足だったあやもあり、海星に待望の1点が入った。

 やはり好投手で注目されていた黒田は思い返す。「同じ負けるのでも、いい投手に負けたのだから。さっぱりというか、悔しさはなかったな」

 夏の甲子園11回目で初めて3回戦を突破した海星は、勝ち進んだ。敗れた準決勝はPL学園(大阪)と延長十一回の接戦で、長崎勢2度目の堂々の4強。国鉄長崎駅に帰ったとき、歩道橋に人が鈴なりで、出迎えの多さに仰天した。途中駅で列車に乗り込んできたOBにその有り様を伝えられ、慌てて車中でユニホームに着替えたという。

 「出発のときは何にもなかった。当時は海星が甲子園に行くと思われていたから。迎えの様子を見て、やはり応援してくれていたんだなと」と酒井は笑う。

 この大会、2回戦敗退の東海大相模(神奈川)に原辰徳(元巨人)がいた。それもあって、自分が甲子園でヒーローとなった感じはしなかった。遠くなりつつある40年前の記憶で一つはっきりいえるのは、崇徳戦が「自分のベストピッチだった」ということだけだ。(隈部康弘)

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 酒井圭一(さかい・けいいち) 長崎県壱岐市出身。海星高1年生から速球派で鳴らし、1977年、ドラフト1位でヤクルト入り。90年引退。通算6勝12敗4セーブ。現在はスカウト。