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バーチャル高校野球

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岡山の70回大会史 「岡山はぱっとせん」

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 ■個性派去って群雄割拠 岡山南が新しい時代へ

 昨年から中日の監督になった星野仙一(四一)=倉敷商=は、昨年二月に出した自著のタイトルに「燃えて勝つ」と書いた。天性の明るさと行動力。何より負けず嫌いだから、いつも全力投球する星野の生き様が端的に伝わってくる。その、いつもカッ、カッと燃える男の顔が、一瞬曇る時がある。高校野球に触れた時だ。「岡山はぱっとせん」と悔しがるのである。

 岡山では野球は早くから普及した。昔から陸路、海路の要所。産物の集散地で、新しいものを受け入れてこなす才覚も自然と備わったらしい。のちに、早大へ移って野球を指導、学生野球の父と呼ばれた安部磯雄が、明治二十七年に米留学から帰り、関西中でベースボールを教えたのに始まる。その関西を率いて昨夏、念願の甲子園出場を果たした最高齢監督の服部与人(六一)は「昔は広島や鳥取などと地区予選もあって甲子園への道は遠かった」としみじみいう。それが、五十年の第五十七回大会から一県一代表になり、甲子園が近くなったのに、ベスト4と8が各一度きり。星野のいう通り「ぱっとしない」成績が続いている。

 低迷の原因は「指導者にあるよ」と指摘する星野。「目前の野球にとらわれ、小ぢんまりとした投手しか育てない。もっとも、投手自身にも負けず嫌いが少なくなったが…」ともいう。確かに、星野が投手不足を嘆くのもわかる。以前の岡山は投手王国を誇った。星野はエースで四番。倉敷商の一年下に松岡弘(四〇)=ヤクルトコーチ=がいた。ライバルの岡山東商には平松政次(四〇)=解説者=、関西に森安敏明(四〇)=元東映=、倉敷工に片岡新之助(四〇)=広島コーチ=がいた。のちにプロ野球で活躍する実力者がこれほど同時期に顔をそろえたのも珍しい。この競り合いを勝ち抜いた平松が、四十年、第三十七回選抜大会で優勝を果たした。

 二十一年から審判となり、マスク越しに野球を見続けてきた大野仁之助(六六)=県高野連前審判部長=によると「個性のある監督がいなくなりましたなあ」とか。三十年代をリードした倉敷工には小沢馨(五七)=スポーツ用品店経営=、選抜大会の優勝を頂点に四十年代を引っ張った岡山東商には向井正剛(五三)=文部省体育局スポーツ課長=がいて、競い合っていた。この「豪傑」(大野)らの個性にひかれて全県下から選手が集まり、それぞれの時代を築いた。向井、小沢の二人が退いた五十年代以降は、岡山でも選手は分散し、群雄割拠の時代になった。

 そんな混戦の中から、いま、岡山南が新しい時代を築きつつある。五十二年の選抜大会に初出場以来、春と夏の甲子園出場はもう各四度を数えた。四十七年から監督の白井敏夫(五六)は、向井らの個性派とはがらりと違うタイプ。教育者の立場を貫き、「監督は黒衣」と言い切る。じっと選手が育つのを待ち、実力ではなく上級生を優先。それで甲子園を逃しても「甲子園へ行くのも人生、行かぬのも人生」と構える。「家康」にたとえられる姿を慕って、近年は有力選手が集まる。教え子からプロ入りする選手も増え、川相昌弘(二三)=巨人=、横谷総一(二二)=阪神=らがいる。

 また、プロ野球界で息長く活躍している組には山陽の仁科時成(三六)=ロッテ=、勝山の山根和夫(三二)=西武。新鋭では水島工の佐々木誠(二二)=南海=、岡山東商の八木裕(二二)=阪神。史上六位の486本塁打を記録した大杉勝男(四五)=解説者=の関西の後輩に真鍋勝己(一九)=阪神、名門倉敷工からは中藤義雄(二四)=近鉄=ら。

 しかし、星野や平松、大杉らを超える選手はまだいない。星野は「わしの代わりをやってくれる者よ、はよ出てこい」と声を大にする。その顔は笑っている。口調も冗談っぽい。だが、目は鋭く光っていた。(1988年5月30日掲載、年号は昭和)