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(白球の世紀:3)秋田の快進撃、予想覆す 高校野球

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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 日本に野球が伝わったのは、1872(明治5)年ごろとされる。だが、定着して人気が高まる過程は歓迎一色ではなかった。

 そもそも朝日新聞は「野球害悪論」の旗振り役だった。1911(明治44)年8~9月、東京朝日新聞は「野球とその害毒」という連載を22回も掲載している。これには批判も多く、読売新聞は同年9月に「野球問題演説会」を開き、弁士12人のほとんどが野球擁護論だった。

 経緯を意識してか、第1回大会が開かれる直前の1915年7月下旬、識者の論考が大阪朝日の紙面を次々飾った。早稲田大学教授の安部磯雄「野球界の善傾向と悪傾向」、慶応義塾塾長の鎌田栄吉「野球の是非は遣方(やりかた)一つ」などだ。8月18日付特集面には「初めて野球を見る人の為(ため)に/=ベースボール早分(はやわか)り=」という解説も載せ、アマチュアスポーツ普及の立場を強調している。

 秋田中(現秋田)でも批判は根強かった。野球部主将の渡部純司らは勇躍出場の準備を進めたが、一部の支援者らは「大阪まで野球をやりに行く必要はない」と反対。選手数人は参加を断念。他の運動部からの勧誘で穴を埋めた。一行は8月14日、35時間かけて大阪へ到着した。

 だが、最北の参加校は周囲の予想を覆す快進撃を見せる。

 19日に三重四中(通称山田中、現宇治山田)を9―1、20日に優勝候補の東京の早稲田実を3―1で破り、決勝へ。早実の名投手、臼井林太郎の内角への変化球を、体を後ろへ引きつける打法で攻めて5安打を奪い、焦った早実は5失策と崩れた。秋田中は、慶応大の投手で米国遠征の経験もある同校OBの石川真良らがコーチをしていた。そのため、試合結果を報じる大阪朝日の21日付紙面は「小さな早慶戦」と銘打った。

 秋田出身者が続々応援に駆けつけ、「打って打って打ちまくり、東北男子の腕前を 天下に示すは此時(このとき)なるぞ」(25日付秋田魁新報)という応援歌も作られた。(編集委員・永井靖二)