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(白球の世紀:25)速報競争、伝書バト舞う 高校野球

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 ■ありがとう 夏100回 これからも

 《第4章》

 高まる野球人気とともに、速報競争が過熱していた。大阪朝日新聞は1927年7月、第13回全国中等学校優勝野球大会の兵庫大会で、当時急速に普及していた情報通信手段を試験導入した。伝書バトだ。

 8月3日付大阪朝日新聞神戸版は「忠実なものですね」と、「われらが通信の重大な任務を果(はた)して呉(く)れるあの可愛(かわい)い鳩(はと)君の一人」の活躍ぶりを紹介する。紀元前のギリシャ古代五輪でも優勝者の速報に使われていたハトが、大正末~昭和初期、改めて脚光を浴びていた。

 塹壕(ざんごう)戦となった第1次世界大戦。有線通信は敵に寸断され、発明早々の無線電信は故障続きだったなか、ハトが大活躍した。欧州に追随して旧日本陸軍は19年、フランスから軍用バト1千羽と、移動鳩舎(きゅうしゃ)などを輸入。フランス陸軍クレルカン中尉らを指導教官として招請し、旧海軍も彼らからハト通信を学んだ。23年9月の関東大震災では、地震発生から半月間ほど、他の情報手段が壊滅。約2千羽のハトによる通信だけが頼りだった。以後旧日本軍は45年の敗戦まで、他の手段とともにハトを使い続けている。

 大会でのハトの利用は、27年5月に大阪朝日新聞へ入社したばかりだった元海軍の鈴木謙吉が手がけた。横須賀防備隊でクレルカンらから指導を受け、約8年間もハトの訓練に携わった経歴の持ち主だった。

 28年の第14回大会で、ハト通信は本格化。大阪本社屋上の鳩舎には200羽が飼われ、8月12~22日の大会期間中、ハトの便が計160回にわたって原稿や写真、イラストを球場から本社へと運んだ。人だと平均1時間20分かかった原稿便が、ハトは12分だったという。鈴木は著書「鳩とともに三十六年」で、「ハトのホームランをかっとばして多くの人にハトの利用価値を認めてもらわなければならなかった」と振り返る。

 この時期、速報をめぐってメディア界に地殻変動が起こっていた。(編集委員・永井靖二)