メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

(白球の世紀:68)ドッサン、怖かったけど 高校野球

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 「ドス」

 戦時下に浪華商(大阪、現大体大浪商)の監督を務めた中島春雄は、部員たちに、かげでそう呼ばれた。「ドスを利かす」の「ドス」だ。

 「『ドス』とか『ドッサン』とか言うてました。厳しい監督で、それは怖い人でした」

 中島の指導を受けた今西錬太郎(93)は振り返る。

 中島は1928(昭和3)年に浪商に入り、3年生で4番を打った。最上級の5年生をさしおいて4年生で主将に指名され、2年間務めた。

 浪商では当時、監督は大会前などに現れるだけで、ふだんは主将の中島を中心に練習した。「ドス」はそんな選手時代からのあだ名だった(「浪商高校野球部六十年史」)。

 中島は35年に監督に就任したものの、ほどなく応召。今西が4年生になる直前の42年1月に復帰した。すぐに、冬季練習中のたき火を禁止した。

 「練習で軽いプレーをすると猛烈に怒られました。四の五の言わさない。今では考えられないことだが、ノックバットで選手のしりをたたいて、バットが折れたこともありました」

 ノックで中島は、野手が捕れるぎりぎりのところに球を打った。それは実に「ねちっこいノック」(今西)だった。

 見ばえのする「華麗なプレー」を嫌い、基本に忠実でスキのない堅実なプレーを選手たちの体にたたき込んだ。厳しい練習で精神力を鍛え抜く。それが浪商野球の伝統だった。

 戦時下の授業は軍事教練が中心におかれた。「野球なんかやるやつは国賊や」と配属将校が言った。今西は、野球部に厳しくあたる将校に反感を抱き、教練に出なかったことがあった。

 「お前のようなやつは……」

 職員室で将校に叱られる今西の横に、苦虫をかみつぶしたような顔つきのドッサンがいた。

 今西は言う。

 「ぼくには将校よりドッサンの方が怖かった。ところが、ドッサンはなぜか、ぼくに何も言いませんでしたね」

 (上丸洋一)