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タイトル

クリケットと野球

2007年06月21日

 野球のルーツをたどっていけば、イギリスのラウンダーズ、ストゥールボールなどに連なっていく。いずれもが女性のスポーツだった。後者の男性版として作られたのがクリケットだったから、それは野球の直接のルーツとはいえないまでも、無関係とはいえない。1744年に公式ルールができている。

 私たちがクリケットと聞いてまず思うのは「フェアなスポーツ」ということだ。英語でIt’s not cricket.といえば、「それはフェアではない」という意味だから、それも当然だろう。しかし、それははじめから「フェアなスポーツ」だったのではなかったようだ。

 歴史的にいって、クリケットは賭けごととは縁の深い、いささかダーティなスポーツだったらしいのだ。そんなゲームが、どうしてイギリスの国技になり得たのか。

 それはまったくの地理上の偶然からだったという。ロンドンの南、ケント州とかサリー州には貴族が多かった。そこに大陸から古いボールゲームが伝えられたから、貴族たちはそれらを楽しんだ。その中にはサンドイッチで有名なサンドイッチ伯爵もいるし、ドーセット公爵(マリー・アントワネットの恋人)もいる。公爵は彼女にクリケットのバットを贈ったりしている。

 貴族たちはそれぞれが自分たちのピッチを作ってプレーした。クリケットはすぐに「金がらみのスポーツ」になった。貴族には常習的なギャンブラーが多かったからだ。例えば、ウィンチルシー伯爵は一つのゲームに1000ギニーを賭けた記録を持つ。いまのドルになおせば、約11万ドル。有名なローズ・クリケット場を建設したのも彼だった。得点が金で売買されたこともあったという。

 ある試合では、投手はいい球をいっこうに投げないし、打者は打者で、いい球が来ても打たないこともあった。両者とも八百長を引き受け、金にしばられていたからだ。

 こうした噂が広まって、クリケットはすっかり人気を失い、そのままでは消滅するところまで来ていたのだ。それを救ったのは何だったか。それは「学校」だった。

 19世紀に入るまでに、ヨーロッパでは子供の教育についての新しい方法が議論され始めていた。体育や徳育も必要ではないかというのだ。イギリスもその考えに同調し、それらを合わせた方法が採用された。そのときにクリケットがその中に組み入れられたのだ。 イートンやハーローなどの名門パブリック・スクールでこれが採用された影響は大きかった。やがてそれはイギリス全土の学校に及んでいくのだが、その状況はちょうど明治時代の日本の野球に多少似ている。

 いや、よく似てはいるのだが、野球の場合の方がもっと劇的だろう。なぜなら、プロ中心のこのアメリカのゲームは、外国である日本の学校でプレーされることで別の価値を与えられ、新たな息吹を吹き込まれたのだから。


佐山和夫(さやま・かずお)

 1936年和歌山県生まれ。ノンフィクション作家。慶応大文学部卒。日本ペンクラブ、アメリカ野球学会、スポーツ文学会会員。84年潮ノンフィクション賞、93年ミズノ・スポーツライター賞など受賞。メジャー・リーグや黒人リーグなどのアメリカ野球や日米野球史に関する著書・訳書多数。近著は「松井秀喜の『大リーグ革命』」(2003年講談社)「野球とシェイクスピアと」(2006年論創社)など。
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