昨年8月、99歳(白寿)のお祝いをした時の丸山ヒサ子さんと毅さん=横浜市の自宅、毅さん提供

1945年8月の敗戦前後の混乱で離ればなれになり、北朝鮮で暮らす娘との再会を待ち続けた横浜市の母親が、昨年暮れ、念願を果たせないまま逝った。丸山ヒサ子さん、享年99歳。戦後64年、戦争の傷跡は消えない。
丸山さんが願い続けていたのは、長女の節子さん(79)との再会。北朝鮮の清津市で暮らしている。
丸山さん一家は、戦中、朝鮮半島の開城で、果樹園を経営していた。節子さんの女学校の卒業のお祝いに、45年6月末に夫が節子さんと次女を連れて中国・東北地方(旧満州)に旅行に出かけ、そのまま戻ってこなかった。
丸山さんは後ろ髪を引かれながら、46年の冬に3人の息子を連れて日本に引き揚げた。廃品回収などをして女手ひとつで子どもを育てた。
52年、北朝鮮に子どもがいるという女性から、節子さんが生きていると知らされ、以来文通をしてきた。しかし、手紙の内容はいつも同じで、生活の状況はほとんどわからず、夫と次女の消息を尋ねても何も答えてくれなかった。
北朝鮮の日本人妻の里帰り事業が97年から00年にかけて3回実施され、計43人が帰国した時には、希望がふくらんだ。節子さんは、在日朝鮮人の夫とともに北朝鮮に戦後渡った日本人妻とは違うものの、当時の厚生労働省の担当者から「この次で帰れると思う」と言われたからだ。
しかし、02年10月に予定されていた第4回里帰りは、北朝鮮が拉致を認めた影響などで中止になった。
それでも丸山さんは「再開されれば会える」と希望をつなぎ、おしゃれに気を配るなど元気に生きようとした。
しかし、昨年11月になってから急に体力が衰え、12月2日早朝、布団の中で眠るように息を引き取った。老衰だった。亡くなる10日ほど前からは、部屋の中を指さして「そこに3人がいる」と何度も繰り返していたという。