
「シニョール」は勝負に出たらしい。
ロンドン中心部。市内有数のショッピング街から1本入った道の洋食店で、とうとう見つけた。立て看板に五輪のマークと「オリンピックメニュー」の文字。ステーキや鳥のローストなどメーンが選べて9ポンド弱からのコース。焼けた肉の写真がおいしそう。
五輪開催期間、いかにも飲食店が用意しそうなメニュー名だが、ロンドンでお目にかかるのは難しい。どこかにないか。気にとめながら歩いていた。
客引きをしていた男性店員に尋ねた。「このメニュー。他では見かけないが、なぜこの店は作ったの?」
愛想の良かった店員の顔がこわばった。支配人を連れてくると言い、店の奥へ入っていった。「シニョール!」と呼ぶ声がした。
現れた「シニョール」は40歳ぐらい。細身で長身。黒いスーツがよく似合う。笑顔で出てきたが、目は笑っていなかった。
オリンピックメニューのことを聞くと、「おお。決めたのは店の本部で、私は何も知らない。本部の指示に従っただけ。でもね。うちは公式スポンサーのコカ・コーラを置いている。ほら、コカ・コーラだ。問題はないはずだ」。猛然と「言い訳」を始めた。
◇
シニョールが言い訳したのには理由があった。
ロンドン五輪組織委員会(LOCOG)は今大会、ブランド管理を徹底した。五色の輪のロゴや「Olympic」「London 2012」などの文言を、会場周辺で公式スポンサー以外が商業目的で使うことを禁止。破れば法的手段も辞さないという。対象は街の飲食店や土産物屋など、世界から訪れる人々との接点も含められた。
ブランド使用をスポンサー企業に限ることで、五輪の過度な商業化を防ぐ――。これがLOCOGの狙いというが、要はスポンサー保護だ。
開幕直前に会見したハント五輪相は「スポンサーは大会運営費の半分にあたる10億ポンド(約1200億円)を負担してくれている。それがなければ納税者はもっとお金を負担しなければいけなくなる」とスポンサーを尊重する姿勢を強調した。
ブランド取締官が街中やネット上を見回り、違反に目を光らせる。オリンピックパーク近くで「オリンピック」の名前を冠した喫茶店は期間中、「オ(O)」を抜いて「リンピック」に改名。色紙で作った五輪ロゴを店先に飾った花屋は、取り外すよう指摘を受けたと報じられた。
結果、街から五輪のにおいが消えた。
洋服や雑貨店のショーウインドーを見ても五輪ムードはない。気の利いた店が「祝おう!」と思わせぶりに書いて各国の国旗をぶら下げる程度。セールはやるが、「オリンピックセール」はない。4年に一度の祭りが訪れている街の商店街は粛々と営業するだけ。
試しに土産店で「五輪をもっとアピールしないのか」と尋ねると、店員は「LOCOGがダメだと言うから。うちの五輪はこれだけだ」と、五輪グッズが行儀よく並んだ幅2メートルぐらいの棚を指さした。
五輪会場の一つで会話したロンドン在住のエリン・オストボーさん(41)は米国ロサンゼルス出身。世界的なマーケティング会社勤務でシドニーにもいた。五輪を市民として迎えるのは今回が3度目だ。エリンさんは「シドニーのときは、開幕まで関心がなさそうだった店も会社も、開幕後は五輪を盛り上げた。今回はそうならないわね」。パブで会ったコーディ・チャールストンさん(29)はバンクーバーから訪れた。「五輪会場の隣の駅へ行くと、もう五輪を感じない。バンクーバーはロンドンより小さいけれど、街全体が五輪だったよ」
◇
「シニョール」は、私が首に提げた記者証をチラチラ見ていた。なんとなく気づいた。私を五輪当局の関係者と疑っているのでは。
私はもう一度、日本の新聞記者であることや、五輪の街の景気を取材している旨を丁寧に説明した。やや落ち着きを取り戻して、彼は「景気? いまは五輪会場に人の流れを持って行かれてるが、市は観光客がいっぱい来てると言っている。これからこのメニューでもうかる」と言った。そして最後に付け足した。
「そう願ってる」(和気真也)