2010年1月4日
オホーツク海を望む北海道北見市の常呂(ところ)町。人口は5千人に満たないが、カーリングならどこにも負けない。正式競技になった1998年長野五輪以来、この町で育ったカーラーはすべての五輪でメンバーに名を連ねてきた。
長野五輪に39歳で出場した近江谷(おおみや)好幸もその一人。そして12年後の今年2月、好幸の長女杏菜が同じ舞台に立つ。
小学4年生になると町のカーリングホールで開かれるジュニア教室に参加出来る。99年、杏菜は同級生を誘った。「常呂では自然なこと。わいわいと遊び感覚で始めた」。ただ、ほかの子とは違う気持ちの高ぶりもあった。「五輪でテレビに映っていた父の姿が格好良かったから」
元々、カーリングに不可欠な体の柔らかさが杏菜にはあった。上達は早かった。常呂で父の手ほどきを受けた高校3年までは、チームの司令塔で作戦を組み立てるスキップのポジションを任された。
全国高校選手権で2連覇するなど順調に伸びた。だが町の多くのカーラーが直面する問題が待っていた。「カーリングは続けたいけど、常呂には進学先も就職先もない」。札幌や道外に出た先輩の多くが、この競技から自然と遠ざかっていくのを見ていた。
手を差し伸べてくれたのはやはり常呂で生まれ育った3歳上の先輩だった。
「杏菜、青森に来ない?」
2006年トリノ五輪前にいち早くチーム青森に加入していた本橋麻里が電話をくれた。トリノで旋風を巻き起こした本橋はあこがれの人でもあった。「二つ返事でOKでした」。必死に勉強し、青森市役所の就職試験に合格。常呂以外でカーリングに打ち込める環境を手に入れた。
昨年12月、チーム青森は常呂で約1週間の強化合宿を行った。実家からホールに通った杏菜にとっては、08年春に青森に渡ってから、一番長い帰省になった。
バンクーバー行きを決めた娘に、好幸は長野の話はしなかった。「五輪は独特な雰囲気でしたけど、それは本人が経験して感じてくればいいことですから」。杏菜はちょっといたずらっぽい顔で応じた。「お父さんのことは尊敬している。でもオリンピックではお父さんの成績(5位)は超えたいです」
3日、チーム青森の5人は五輪前最後の海外遠征先となる欧州へと飛び立った。(平井隆介)
◇
■近江谷杏菜の歩み
1988年 常呂町に日本初の屋内カーリング場が完成
1989年10月 杏菜が生まれる
1998年 2月( 8歳)父好幸が長野五輪に出場。5位入賞
1999年 (10歳)町のジュニア教室でカーリングを始める
2002年 (12歳)本橋麻里らと「マリリンズ」で日本ジュニア選手権優勝
2006、07年 同級生で組む「grace」で全国高校選手権2連覇
2008年 1月(18歳)高3でチーム青森へ加入
2008年 4月(18歳)青森市役所に就職
2009年 2月(19歳)チーム青森、日本選手権4連覇。杏菜はフィフス(補欠)
2009年 9月(19歳)カナダ遠征でサードのポジションをつかみレギュラー定着
2009年11月(20歳)日本代表選考会で目黒萌絵、本橋麻里、石崎琴美、山浦麻葉、近江谷杏菜の5人で組むチーム青森がバンクーバー五輪代表に
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(日本時間)03月01日(月)07時58分現在
順位 | 国 | ![]() |
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1 | ![]() |
14 | 7 | 5 |
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10 | 13 | 7 |
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9 | 15 | 13 |
4 | ![]() |
9 | 8 | 6 |
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6 | 6 | 2 |
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